もともとチベットは中国の一部でしょうか?それとも独立国でしょうか?
このように「チベットはもともと中国なのか、中国とは別の国なのか?」というレベルから認識の食い違いがあります。
そこでこの記事では、中国とチベットは同じ国か、別の国か?なぜチベットで中国に対する抵抗が起きるのか?について簡単にご説明します。
チベット問題に関する日本語のブログは数多くありますが、その多くは1950年頃から話が始まり「中国が悪い」という結論で終わっている印象です。
しかし実際には清の時代まで遡らないと、中国人がどのような論理で中国によるチベット支配を正当化しているのかは理解できません。
そこでこのブログでは、清の時代まで遡って中国とチベットとの認識の食い違いを紐解いていきます。
先に結論からご紹介します。
- 中国とチベットが同じ国か別の国かは視点によって異なる
- 「もともと違う国だから独立させるべき」という理屈は無理がある
- 問題の根源はチベット文化の破壊と人権侵害
Contents
チベットはもともと中国の一部か
チベットは中国の西の方にあり、現在は中国の一部となっています。
画像引用元:wikipedia 雍正のチベット分割 最終更新 2019年7月6日 (土) 14:56
もともと「チベット」と呼ばれるのは上の地図で色が塗られている部分全体ですが、現在は上の地図で赤く塗られた部分(U-Tsang)だけがチベット自治区とされています。
チベットは、北のウイグル自治区と並んで中国政府による人権侵害が深刻な問題として世界中で大きく報道されています。
もともとチベットを統治していたダライ・ラマ法王は1959年にインドへ亡命し、現在はインドのダラムサラで暮らしています。
いつチベットが中国になったのか?と質問をすると、人によって回答が異なります。
このような食い違いがあります。従って、中国人に対し
などと言うと
などと怒られてしまうかも知れません。
私は何回も怒られました。
実際のところはどうなのでしょうか?
チベットと中国との間でこのような食い違いが生じる理由は、大きく分けて2つあります。
- 清の皇帝とチベットのダライ・ラマとの関係をどう考えるか
- 中華民国・中華人民共和国が清を継承した国であることを認めるか
それぞれご説明します。
清とチベットの関係に関する食い違い
話は17世紀後半まで遡ります。
食い違いの始まり
中国の9割以上を占めるのは漢民族と呼ばれる人々ですが、当時の中国は満州族の清という王朝が統治していました。
満州族は中国東北部(今の中国でいう遼寧省、吉林省、黒竜江省)を本拠地とする狩猟民でしたが、儒教を重んじる漢民族とは異なり、満州族はチベット仏教を重視していました。
1653年、清の第3代皇帝である順治帝がチベットのダライ・ラマ5世を首都北京へと招待しました。
このとき、順治帝はわざわざ北京から数日離れた場所へ行き、ダライ・ラマを出迎えました。
通常、皇帝は北京から動きません。
なぜなら皇帝が世界で一番偉いので、他国の王が北京へやってくるべきだからです。
従って、順治帝が北京郊外へダライ・ラマを迎えに行ったという事実からも、清の皇帝がダライ・ラマを特別待遇でもてなしていたことが分かります。
そして、清の皇帝はダライ・ラマ5世に対して改めて「ダライ・ラマ」の称号を与え、ダライ・ラマ5世は清の皇帝に対し「文殊皇帝」の称号を与えました。
この称号交換をどのように解釈するかが、現在に至る食い違いの始まりです。
それに対し中国側は、称号交換によってダライ・ラマは清の皇帝に従属したと考えています。
チベットの主張
チベット側の見解によれば、皇帝とダライ・ラマとの関係は「施主と僧侶の関係(チュ・ユン関係)」であって、「中央政府と地方政府の関係ではない」と言います。
以下は、チベット側の見解ですが、清が施主(檀家)、チベットが僧侶という関係だと述べています。
中国が宣伝工作(プロパガンダ)に記すのとは異なり、かならずしも施主が優位な立場にあったわけではない。俗界の施主は上師(ラマ)の弟子であり、上師(ラマ)への帰依者なのである。
チベット側は上記の通り、清の皇帝とダライ・ラマは対等、もしくはダライ・ラマの方が清の皇帝より上、と考えています。
弟子である清の皇帝が師匠であるダライ・ラマを保護するということです。
中国の主張
一方、中国は称号交換によって清の皇帝によるチベットの統治(実効支配)が始まったと考えています。
東京大学大学院法学政治学研究科(アジア政治外交史)の平野聡教授は清のチベット(とモンゴル、新疆)支配について以下のように述べています。
その支配は基本的にその土地ごとのやり方に任されたが、北京から八旗の軍人が大臣として派遣され、現地社会を監視していた。この枠組みは、皇帝が決めた頻度にしたがって朝貢国が挨拶に来るだけの関係=朝貢関係と比べ、明らかに密接かつ厳格である。
平野聡「「反日」中国の文明史」P169
「朝貢国」というのは朝鮮や琉球王国などが該当します。
チベットは朝貢国と比べても清と密接な関係があり、客観的には北京からチベットへ号令を出しているように見えます。
このような歴史的事実から、中国人は「チベットは清に支配されていた」と主張します。
なお、この認識の食い違いは現代になって急に発生したわけではなく、当時からあったようです。
ダライ・ラマ5世が清朝皇帝に従属したか、それとも両者対等の対面であったのかは、現代でもよく議論にされる。当時の清朝側とチベット側の記録にすでに認識の食い違いが見られる。
この1653年の食い違いが現代までず~っと尾を引いて現在に至ります。
個人的な憶測ですが、清の皇帝は満州族の長としてダライ・ラマに最大限の敬意を表したかったものの、皇帝よりもダライ・ラマが偉くなってしまうと儒教を重んじる漢民族(中国人)に対してメンツが立たないので、うまく折り合いをつけようと苦労したのではないかと思います。
ところで、中世の西ヨーロッパでも、君主とローマ教皇のどちらが偉いのか?が長年の争いとなっていました。
教皇が勝ったり(カノッサの屈辱)、君主が勝ったり(アナーニ事件)しましたが、いずれにせよヨーロッパは世俗の君主と宗教的権威のどちらが強いのか白黒ハッキリつけたがる傾向があるようです。
しかし清の皇帝とダライ・ラマ法王はヨーロッパと異なり、皇帝と法王のどちらが偉いのか白黒ハッキリつけることはせず、皇帝と法王の関係は曖昧なままでした。
ひょっとしたら、このあたりがヨーロッパとアジアの文化の違いかも知れません。
欧米列強の到来により認識の食い違いが問題化
上記の通り、清の時代から北京とチベットとの間で認識の食い違いがあった可能性がありますが、当時はそこまで問題になりませんでした。
清は「清がチベットを支配している」と考え、チベットは「弟子である清の皇帝は、チベット仏教への信仰心から師匠であるダライ・ラマを保護している」と考えていたとしても、お互いにとって都合が良ければそれで良かったのです。
しかし、19世紀後半になって欧米列強が世界を席巻し、世界中が欧米列強の植民地にされていくと風向きが変わってきます。
明治時代の終わり頃になると欧米だけでなく日本も列強の仲間入りを果たしていましたが、清は「植民地にされる側」ではなく「植民地を持つ側」になりたいと望んでいました。
このような国際環境の変化により、「チベットは独立国なのか、清の一部なのか」という問題について白黒ハッキリつける必要に迫られました。
その結果、清はチベットに対して従来の「施主と僧侶の関係」という曖昧な関係ではなく、より強力に支配を強めようとしました。これに対しチベット側は猛反発します。
1908年、チベットは清からかつてない侵攻を受け、両国に大きな分岐点が訪れた。それまでの派兵は、ダライ・ラマもしくはチベット政府を助けるものであり、チベットの要請によるものだった。ところが皇帝の今回の行動は、武力によってチベットに主権を確立し、当時チベットに高まりつつあったイギリスの影響力を駆逐するのを狙いとしていた。
イギリスは1890年と1893年に清との間でチベットに関する条約を締結します。
しかしチベットは「チベットは独立国なんだから、勝手に清との間で条約を締結するな」と反発し、1904年にイギリスはチベットと直接ラサ条約を締結しました。
当時イギリスはインドを植民地にしており、インドと隣接するチベットもイギリスの保護国になりましたが、清からすれば自国の領土であるチベットが勝手にイギリスと条約を締結したことが許せません。
このような経緯により、1908年に清はチベットへ軍事侵攻することになりましたが、当時は清自体がガタガタだったのでチベットを実効支配するだけの力が清にはありません。
1914年には、イギリス、中国(既に清ではなく中華民国)、チベットの間でシムラ条約という条約の調印が協議されましたが、認識の食い違いが著しく中国は署名を拒否しました。
チベット | チベットの一切の内政外交は中国の指揮を受けない |
イギリス | 中国のチベットに対する完全な自治権の承認(中国の宗主権の下の自治邦) |
中国 | 中国によるチベット行政の管理 |
当時のイギリスは、チベットに対しては「チベットは独立国である」と認めるような素振りを見せながら、中国に対しては「チベットは中国の一部」と認めるような素振りを見せていました。
イギリスの二枚舌外交は有名ですが、中国とチベットについてもイギリスにとって都合が良いように振り回していたような印象を受けます。
いずれにせよ、「チベットは中国の一部」というのは現在の中国共産党が突然言い出したわけではなく、清の時代から一貫していたことがお分かり頂けたかと思います。
従って、中国が民主化しようが共産党政権が倒れようが、中国がチベットを手放すことは絶対にないだろうと思います。
現に、大陸の中華人民共和国だけでなく台湾の中華民国もチベットの領有を主張しています(中華民国はモンゴル国の領有も主張しています)。
中華人民共和国の成立と中国によるチベット実効支配の確立
上述の通り、清・中国は一貫してチベットの独立を否定していたものの、19世紀後半から20世紀前半までの約100年間にわたって中国本体が軍閥や列強に荒らし回されガタガタだったので、チベットを支配できる実力がありませんでした。
1911年の辛亥革命以後、清、中国勢力がチベットから一掃されて以来、1950年中国の侵入までの38年間、チベットは独立の道を歩み続けた。
チベットは清の崩壊後は中国からの支配を受けていなかったのですが、1949年に中華人民共和国が成立して中国の内戦状態が終結すると、中国共産党の軍隊がすぐにチベットへ侵攻しました。
イギリスは既にインドから撤退していたのでチベットを守ることはできず、また当時は世界の目が朝鮮戦争に注がれていたので、中国共産党のチベット侵攻については注目を受けませんでした。
チベットの立場からすると
ということになると思いますが、中国の立場からすると
清とチベットとの関係に関する食い違いまとめ
清とチベットの関係は「施主(檀家)と僧侶の関係」という、現在の国際関係では考えられない関係でした。
一方、19世紀にヨーロッパから世界中へ広まった現在の国際社会は、「同じ国か?違う国か?領土の境界はどこか?」について白黒ハッキリさせなければなりません。
白黒ハッキリ決着させるためには、「施主と僧侶の関係」を現在の国際関係の論理(主権国家体制)に沿って解釈しなければなりません。
しかし、従来の清とチベットとの関係(施主と僧侶の関係)をどのように解釈するのかは、それぞれの立場によって判断が変わります。
チベットの解釈では、清がチベットに軍隊を送りチベットを保護していたのは日米安全保障条約と同じようなもので、チベットが主権国家として軍隊の派遣を清に依頼したため、と解釈しています。
それに対し中国は、清がチベットに軍隊を送っていたのは清がチベットを領土として実効支配していたため、と解釈しています。
清と中国との関係に関する食い違い
ここまで、清・中国とチベットとの歴史的関係を巡る食い違いに関してご説明してきましたが、チベットと中国との間ではもう1つ食い違うポイントがあります。
中国は清を引き継いだのか
ここまでの説明には1つの前提がありました。
それは、1911年の辛亥革命を経て清が中国に変わった(中華民国政府が清皇帝の権限を承継した)という前提です。
しかしチベットは、中国を清の承継者として認めていません。
ダライ・ラマ法王日本代表部事務所のホームページに、以下のような記述があります。
存在したのは清帝国であり、中国は帝国の1部にすぎない
つまり、チベットは清帝国と関係があったのであり、中国とチベットは関係ないということです。
チベットにとっては、文殊皇帝(清の皇帝)がたまたま中国の皇帝も兼任していただけ、ということです。
漢字を知らない内陸アジアの人々には、満州人皇帝との密接な関係とは裏腹に、「中華」「中国」に服従した覚えは全くない。満州人皇帝と「中国」・モンゴル・チベット・東トルキスタンの主従関係のみがあり、互いの関係は満州人皇帝を介した間接的で横並びのものであるに過ぎないからである。
平野聡「「反日」中国の文明史」P181-182
要するに、以下の図ようなイメージではないかと思います。
大清帝国(満州族) | ||||
満州 | 中国 | モンゴル | 新疆 | チベット |
地図で示すと、だいたい以下のようになります(一部異なります)。
青:中国(漢民族)
黄:満州
灰:モンゴル
緑:新疆(東トルキスタン)
赤:チベット
※台湾を青く塗っていることに反発される方もいるかも知れませんが、日清戦争前まで台湾は清が統治していたため青く塗っています。
※濃いグレーで塗っているのは外モンゴル(現在のモンゴル国)です。中国は外モンゴルの支配も強めようとしましたが、ソ連がモンゴルをサポートしたため、チベットとは異なり中国から独立することができました。
皇帝がいなくなれば清はバラバラになる
チベットの理解では、清とチベットの関係は「清皇帝とダライ・ラマとの個人的な関係(施主と僧侶の関係)」です。
従って、施主である清皇帝がいなくなれば清とチベットとの関係は終わりです。
中国は施主である清皇帝が支配していた土地の一部に過ぎないので、チベットとは関係がありません。
ところが中国はそう考えませんでした。
辛亥革命によって清の皇帝が有していた権限は中華民国へ引き継がれた、と考えました。
そして、清の皇帝はチベットを支配していたので、同様に中華民国はチベットを支配することができる、と考えました。
漢民族も満州族もウイグル族もチベット族も、全て「中華民族」に含まれます。
清も中国も同じ「中華民族の国」なので、中国が清からチベットを承継するのは当然のこと、と考えています。
「中国は中華民族という単一民族国家の国」という考え方の背景には、戦前に単一民族国家(と中国に認識されていた)日本が圧倒的に強くなり、「中国も日本のような単一民族国家になれば強くなれる」と思ってしまったことがきっかけです。
中国ナショナリストが抱いた「日本型の単一民族国家を創らなければならない」という決意は、他でもない日本との緊張の中でさらに強められ、国家としての「中華」への絶対的な忠誠と「漢」の主導権承認を「少数民族」に迫るという、何とも息苦しいものになった。
平野聡「「反日」中国の文明史」P198
チベットの独立は認めるべきか
上述の通り、清はチベットへ八旗の軍人を大臣としてチベットへ派遣して現地社会を監視していました。
これを「実効支配」と解釈すれば「チベットは17世紀から清に実効支配されていた」という中国の主張は「絶対に間違っている」とは言い切れないのではないでしょうか。
もちろん、チベットの「チベットは独立国として清の皇帝に保護されていた」という主張も間違いとは言えません。
しかし、たとえチベットの主張を採っても「もともとチベットは独立していたのだから、チベットを独立国として認めるべき」と言うのは難しいのではないかと思います。
「近代以前には違う国だから国を分けるべき」ということを言い出したら、確かに「沖縄だって独立させるべきだ」という話になりかねません。
※私は、江戸時代の琉球は日本とは別の国と考えています。詳しくはこの記事のコメント欄をご参照ください。
世界には元々別の国だったところが1つの国としてまとまっているところはたくさんありますが、「チベットは元々別の国だから独立させなければならない」と言い出したら、それら全ての地域を独立させなければならないことになりかねません。
従って、「チベットは独立させるべき」というのはちょっと無理があるのではないかと私は考えています。
実際、チベットを代表するダライ・ラマ法王自身もチベットの中国からの独立は求めていません。
そのことは、ダライ・ラマ法王日本代表部事務所のホームページにも記載されています。
ダライ・ラマ法王は、中国が言うように独立を要求しているのではなく中国という枠組みの中での自治を求めている、と明言している
チベット側の考えとしては「もともとチベットが中国の一部であることを認めた」というよりは、「チベットはもともと独立国だが、中国が絶対に譲らないので諦めた」というところかと思います。
しかし「チベットが中国の一部である」ことを認めたからと言って、チベット問題に対する中国の態度が正しいものだとは思いません。
なぜここまでチベット問題が世界的に大問題になっているのかというと、中国政府によるチベット文化の破壊とチベット人への人権侵害が行われているからです。
上記、ダライ・ラマのコメントにある「自治を求めている」というのも、チベット文化の保護や基本的人権の尊重といったことを表しているのではないかと思います。
なぜチベットは中国を嫌うのか
中国人の知人によれば、例えば一人っ子政策は少数民族には適用されず、大学の入学試験でも少数民族は有利な扱いを受けられるそうです。
ではどうして、多くのチベット人がインドへ亡命し、海外では「Free Tibet」が叫ばれるのでしょうか?
1950年に中国共産党の軍隊がチベットへ侵攻(中国の言い方では「イギリスの傀儡政権からチベットを解放」)し、1959年にはダライ・ラマ14世がインドへ亡命しました。
中国によるチベット文化の破壊について、ダライ・ラマ法王のホームページには以下のように書かれています。
当初の侵攻及びその後の文化大革命などを通じて、約120万人のチベット人が命を落とし、約6,000ヶ所の寺院が破壊された。仏教は共産主義に反するものとして徹底的な弾圧を受けたのである。
1970年代は中国全体が地獄絵図でしたが、チベットは「地獄の中の地獄」だったようです。
チベット自治区は現在、外国人が自由に観光することはできず、ガイドを付けたツアーという形でなければ観光ができません。
どこにでも自由に立入れるわけではないので実態を見るのは難しいかも知れませんが、チベット観光をした人からは破壊の痕跡を感じた(古いものが残っていない)という話も聞きます。
中国は「チベットの文化を保護している」と言っていますが、中国共産党が認めている事実からだけでもチベットが圧迫されていることは分かります。
例えば、チベット仏教ナンバー1のダライ・ラマはインドへ亡命していますが、ナンバー2のパンチェン・ラマ11世は中国政府に拉致され(中国政府は「独立派に拉致されないよう保護した」と言いますが)行方不明になっています。
それに代わり、中国政府が任命した別のパンチェン・ラマ11世が表に出て活躍しています(国際的には中国政府の傀儡と見なされ、権威は全くありません)。
現在のダライ・ラマ14世が亡くなると、パンチェン・ラマが新しいダライ・ラマ15世を発見することになります(パンチェン・ラマが亡くなったらダライ・ラマが新しいパンチェン・ラマを発見します)。
このままだと、ダライ・ラマ15世は実質的に中国共産党が任命することになります。
日本の状況に例えると、中国政府が天皇陛下を拉致し、代わりの人を連れてきて「今日からこの人が天皇です」と言っているようなものです。
ダライ・ラマを排除したチベット仏教というのは天皇を排除した神道のようなもので、とても「チベット仏教を保護している」と呼べる状況ではありません。
このような事実だけを見ても、中国がチベット仏教を全く尊重していないことが読み取れます。
中国によってチベットの寺院などは壊滅的な破壊を受けたため、古いチベット文化は周辺のブータン、インド(ラダック、シッキム)などの方が残っていると言われています。
私はラダックを旅行したので、興味のある方は【秘境】インドのチベット・ラダック旅行でオススメの楽しみ方5選という記事をご参照ください。
チベットの抑圧は中国にとって本当に必要か
歴史的な経緯により、中国がチベットを不可分の領土と見なすのは仕方がない側面もあるかも知れません。
しかし、ダライ・ラマ政権は独立は求めていません。
イソップ物語の「北風と太陽」という話がありますが、無理に押さえつけるよりもダライ・ラマの権威を尊重し、(言葉は悪いですが)利用した方がスムーズにチベットを統治できるのではないか、と個人的には感じています。
しかし、中国はチベットには絶対に分裂されては困るので「力づくで押さえ込まなければならない」という強迫観念があるようです。
なぜそこまで中国はチベットの分離独立を力ずくで抑え込まなければならないのでしょうか?
もちろん、資源の確保や安全保障上の問題もあるとは思いますが、たとえチベットに資源がなく安全保障上のメリットがなくても中国は絶対にチベットを手放さないと私は思います。
中国がチベットにこだわる理由は、経済的・軍事的理由だけでなく、中国が抱えている過去のトラウマに原因があると私は考えています。
中国が基本的人権よりも国家の統一を重視する理由については中国人が共産党の一党独裁や人権侵害を肯定する3つの理由という記事をご参照ください。
この記事は、平野聡「反日中国の文明史」という本から引用しました。
チベット問題だけでなく、日本、琉球、朝鮮、モンゴルなど、中国が周辺諸国と過去にどのような関係を築いていて、なぜ現在様々な問題が生じているのかを分かりやすく解き明かした本です。
中国に関する問題に興味がある方にはオススメの1冊です。