※写真は下関にある日清講和記念館です。
前回の記事(中国の高校歴史教科書に登場する日本史1 ~古代から明治維新編~)では弥生時代から明治維新まで、中国の歴史教科書で日本がどのように記述されているかをご紹介しました。
今回は明治時代以降の記述をご紹介しますが、古代から明治維新までの記述が基礎になっているので、前回の記事を読まれていない方は先に前回の記事をご覧ください。
前回の記事でも書きましたが、私は歴史学者ではないので、記事引用後に書いている私のコメントの正確性は保証できません。
素人の感想なので参考程度にお読み頂き、もし意見があればコメント欄にお願いします。
また明治維新までの教科書の記述は全て引用しましたが、ここからは日本に関する記述が非常に多く、全ては引用しきれないため一部抜粋になります。
Contents
琉球処分
まずは琉球処分に関する記述ですが、ここでは明清の冊封体制について書かれています。
由于经济文化发展程度差异,明清时期中国与周边一些国家间形成一种称为宗藩关系的国家关系体系。一些周边国家向明清朝廷“纳贡称臣”接受明清皇帝的册封,使用明清皇帝年号。宗主国不干涉藩属国内政。这种关系不是通过武力形成的。朝鲜,琉球,越南,缅甸等国都与中国形成了这样的关系。从1879年日本呑并琉球起,这种宗藩关系逐渐解体。上巻 P105
経済や文化の発展レベルの違いから、明清時代には中国と一部の近隣諸国との間に宗藩関係と呼ばれる国家関係の仕組みが形成された。 近隣諸国の一部は明・清王朝に朝貢し、明・清の皇帝の冊封を受け、明・清の皇帝の年号を使用した。 宗主国は、臣下の国の内政に干渉しなかった。 この関係は、武力によって形成されたものではない。 朝鮮、琉球、ベトナム、ミャンマーなどの国は、いずれも中国とこのような関係を形成した。 1879年に日本が琉球を併合したときから、この宗藩関係は次第に解体されていった。
ポイントは、冊封体制を「経済や文化の発展レベルの違いが原因」「武力によって形成されたものではない」と強調していることです。
中国を頂点する周辺国との上下関係は、中国自身の経済的・文化的な魅力によって平和的に構築されたもので、武力を背景とする欧米や日本の領土拡大とは異なると言いたいのではないでしょうか?
(ハッキリとは書かれていないものの)背景に華夷思想があることを強く感じます。
すなわち、「軍事力で弱者を威圧して強引に服従させてきた暴力的で野蛮な欧米や日本」 VS 「優れた文化と高い経済力で世界を魅了してきた平和主義で文明的な中国」という構図です。
日本ではよく「中国へ侵攻したのは欧米も同じなのに、なぜ日本だけ批判されるのか?」という疑問を聞きますが、中国の歴史教科書では欧米も相当批判されています(特にアヘン戦争を起こしたイギリスの悪辣さは強く批判されています)。
さて、琉球王国は江戸時代に薩摩藩が支配下に置いていましたが、一方で清からの冊封も受けていました。
2023年6月4日の人民日報1面で、習近平国家主席が尖閣問題に関連して沖縄のことを「琉球」と呼び、琉球と中国の交流の深さに言及したことが報道されており(参考記事)、琉球問題は現在でもホットトピックになっています。
江戸時代まで、日本は「琉球は日本の属国」と考え、中国は「琉球は中国の属国」と考え、琉球自身は独立国だったと考えていたものと思われます。
中国を頂点とする華夷秩序では琉球が日中両属でも問題になりませんでしたが、明治時代になって領土の境界をキッチリ決める欧米の国際秩序(主権国家体制)が東アジアに入ってくると、琉球が日本なのか中国なのかは白黒ハッキリつける必要が生じました。
同じような問題はチベットでも発生しており、チベットの状況についてはチベットはもともと中国?独立国?チベット問題をわかりやすく説明の記事でご紹介しました。
日清戦争
※写真は日清戦争の講和条約が締結された下関の春帆楼です。
琉球処分の次は日清戦争です。
日清戦争の開戦(1894年)
19世纪60年代后,中国西北,西南,东南边疆地区安全与到了严重危机。俄国,英国,日本,法国加紧了对中国的侵略。上巻 P105
1860年代以降、中国の北西部、南西部、南東部の辺境の安全保障は深刻な危機に瀕していた。 ロシア、イギリス、日本、フランスは、中国に対する侵略を強化した。
当時の中国(清)は弱体化しており、その隙を狙って欧米や日本が中国を侵略したと説明しています。
ここから日清戦争に関する記述に入ります。
1885年台湾建省,清政府强化了对台湾的管辖。
日本早就想占领中国的台湾和藩属国朝鲜,琉球,然后进攻中国大陆。因朝鲜发生农民起义,朝鲜国王请求清政府出兵。通过明治维新壮大了国力的日本,趁机出兵朝鲜,且在牙山口外丰岛偷袭清朝运兵船。1894年8月,甲午中日战争爆发。
上巻 P105
1885年、台湾は省として設立され、清国は台湾の管轄を強化した。
日本は早くから、中国の台湾とその藩属国である朝鮮、琉球を占領し、中国大陸に攻め入ることを望んでいた。朝鮮半島で農民が蜂起したため、朝鮮国王は清国政府に軍隊の派遣を要請した。明治維新で国力を強化した日本は、朝鮮へ出兵した機械を利用して牙山口の豊島で清国の軍船を攻撃した。1894年8月、日清戦争が勃発した。
この「早くから」がいつのことを指しているのか不明ですが、少なくとも日清戦争の時点では中国大陸に攻め入ることまでは考えていなかったのではないかと思います(過激派の人達はいたようですが)。
私の意見ですが、日露戦争以前の日本は不平等条約の解消や欧米・ロシアによる植民地支配の阻止が喫緊の課題で、「中国に侵攻したい」というよりも「朝鮮が中国やロシアの味方になると国防上困る」という不安が強かったのではないかと思います。
ここから日清戦争の細かい戦局の動向が記述されますが、あまりにも長いので詳細は省略し、下関条約に関する記述に進みます。
日清戦争の終結(1895年)
日清戦争に勝利した日本は1895年に下関条約を締結し、台湾と多額の賠償金を勝ち取ります。
清政府派李鸿章到日本马关与日本政府义和,被迫签订《马关条约》,承认朝鲜独立,割让辽东半岛,台湾全岛及所有附属各岛屿,澎湖列岛给日本,赔款2亿两白银,增开沙市,重庆,苏州,杭州为通商口岸,日本可以在中国通商口岸设厂制造。上巻 P106
清国は李鴻章を日本に派遣して日本政府と講和し、下関条約を締結させ、朝鮮の独立を認め、遼東半島、台湾全島と附属の島々、澎湖諸島を日本に割譲し、賠償金として平銀2億両を支払い、沙市、重慶、蘇州、杭州を貿易港として追加開港し、中国の貿易港に日本が製造工場を設置できるようにした。
平銀2億両というのは、当時の日本の国家予算の4倍だったそうです。現在の国家予算の4倍といえば400兆円ということになりますね(もちろん、当時とは社会保障費や政府の規模が違うので比較できませんが)。
台湾占領後、台湾で激しい反日運動が起こったことが記載されています。
日本侵占台湾后,台湾人民进行了顽强抗争。1895年5至10月,台湾义勇军与以刘永福为首的留台清军一起,展开了一波又一波反抗日军占领的武装斗争,重挫了日本占领军。台湾人民的武装抗日斗争,表明了台湾人民不屈服于日本的坚强意志。上巻 P107
日本が台湾を侵略した後、台湾の人民は粘り強く抵抗した。1895年5月から10月にかけて、台湾義勇軍は駐台湾清国軍と共に、劉永福をリーダーとして、日本占領軍に対して次々と武装闘争を展開し、日本占領軍に大きな打撃を与えた。台湾人民の武装闘争は、日本に屈しないという台湾人民の強い意志を示した。
遼東半島については三国干渉によって日本から清へ返還することになりました。
《马关条约》签订后,俄、德、法“三国干涉还辽”日本被迫归还辽东半岛,但向清政府索取3000万两白银“赎辽费”。为了在三年内向日本交出2.3亿两白银,清政府分三次向俄法银行团、英德银行团以高额利息借款3亿两白银。上巻 P107
下関条約調印後、ロシア、ドイツ、フランスが遼東返還に介入し、日本は遼東半島の返還を余儀なくされたが、遼東半島の償還のために清朝政府に平銀3,000万両を要求した。 清政府は、3年以内に2億3千万両の銀を日本に引き渡すため、ロシア、フランスの銀行団とイギリス、ドイツの銀行団から3億両の銀を3回に分けて高利で借り入れた。
中国人の日本留学
日本は中国(清)に対してこれだけ厳しい条件を突きつけたのだから、中国ではさぞかし反日運動が盛り上がっていたのだろうと思いきや、当時の中国人は親日的だったようです。
実際、中国の歴史教科書を読んでも、日清戦争については(あれだけの賠償金と領土を奪われたのに)そこまで日本に対して批判的ではなく、どちらかというと「清が弱かったから日本に負けた」というトーンで書いています。
1842年にアヘン戦争でイギリスに負けた中国は、皇帝支配体制を維持しつつヨーロッパの技術を取り入れて近代化をする「洋務運動」という改革をしていました。
日清戦争に負けたことで洋務運動の失敗が明らかになりました。
《马关条约》丧权辱国,进一步把中国社会推向了半殖民地半封建社会的深渊。甲午中日战争的失败,证明了洋务运动的破产。上巻 P107
下関条約は中国に屈辱を与え、中国社会は半植民地・半封建社会の奈落の底へとさらに突き落とされた。 日清戦争の敗北は、洋務運動の破産を証明した。
これはあくまで私の考えですが、日清戦争終結時点での中国人はそこまで反日的ではなかったと思います。
日本に対する怒りよりも、不甲斐ない中国政府(清王朝)への怒りが爆発し、「中国を改革しよう」という動きが盛んになっていた時代でした。
清の洋務運動は、ヨーロッパの近代的な技術を導入するしつつも皇帝支配体制を維持するものでした。
一方、日本の明治維新は、幕藩体制を倒して憲法を定め、ヨーロッパ流の立憲君主制国家を築くものでした。
日清戦争に大敗北した中国は、「近代的な技術だけ導入してもダメで、政治体制そのものを立憲君主制に変えなければならない」と目覚め、日本を参考に変法運動という運動を始めました。
当時の日本は欧米の概念を漢字へ翻訳していたので、日清戦争後には中国から多くの留学生が日本へ学びに来ていました。
特に日露戦争では、アジアの国が欧米列強に勝利したこともあり、中国人は日本に対して親近感を抱いていたようです(参考文献:明治末期日本人の中国人日本留学に 対する認識)。
もちろん、「大勢の中国人が日本へ留学し、日本から近代化を学んだ」などということは中国の歴史教科書には一切かかれていません。
しかし中国各地の辛亥革命や中国共産党関係の歴史博物館を見学すると、革命の志士達が日本でどのような活動をしていたのか、また中国の革命を助けた日本人に関する展示などもよく見かけます。
なので、中国人も「日清戦争後に多くの知識人が日本へ留学して、色々と吸収してきた」ということは何となく知っているのかなと思います。
領土分割と義和団事件
日清戦争以前の中国は「眠れる獅子」と言われ、「本気を出したら恐ろしい国だろう」と思われていました。
しかし日清戦争に大敗北したことで欧米諸国も「中国は弱い」と気づいてしまい、欧米列強による中国分割が始まりました。
《马关条约》签订后,西方列强掀起了瓜分中国的狂潮,民族危机日益加剧。上巻 P110
下関条約調印後、欧米列強は中国分割に躍起になり、民族の危機は日増しに深刻化さを増した。
日清戦争後、義和団事件の時期については、日本に対してよりも欧米に対して批判的な記述が多いです。
各帝国主义国家纷纷在中国划分势力范围,在从渤海到南海的中国沿海地区强租租借地:俄国租旅大,英国租威海卫,德国租胶州湾,英国租九龙,法国租广州湾。列强还在中国大量掠夺铁路和工矿利权。上巻 P107
帝国主義諸国は、中国における勢力圏を分割し、渤海から南シナ海に至る中国沿岸地域の租界を強制的に租借してきた。ロシアは旅順と大連を、イギリスは威海衛を、ドイツは膠州湾を、イギリスは九龍を、フランスは広州湾を租借した。 列強はまた、中国の鉄道、工業、鉱業の利権を大量に略奪した。
マルクス主義の世界観では、「封建制→資本主義→社会主義」と社会が発展していくと考えます。
当時まだ封建社会だった中国に比べれば資本主義の欧米・日本は進んでいたわけですが、西側諸国が中国の発展を助けてくれることはなく、中国の混乱に乗じて中国から徹底的に搾取したという恨みがあります。
帝国主义列强侵入中国的目的,决不是要把封建的中国变成资本主义的中国。帝国主义列强的目的和这相反,它们是要 把中国变成它们的半殖民地和殖民地。帝国主义列强为了这个目的,曾经对中国采用了并且还正在继续地采用着如同下面所说的一切军事的、政治的、经济的和文化的压迫手段,使中国一步一步地变成了半殖民地和殖民地。上巻 P108
帝国主義列強が中国を侵略した目的は、封建的な中国を資本主義的な中国へ変えることでは決してなかった。 それどころか、帝国主義列強の目的は、中国を半植民地、植民地にすることである。 この目的のために、帝国主義列強は、中国を一歩一歩半植民地、植民地にするために、以下に述べるような中国に対するあらゆる軍事的、政治的、経済的、文化的抑圧手段を用い、現在も用い続けている。
「現在も用い続けている」とありますが、上記の文章は毛沢東の著作からの引用のようで、当時の話です。
「欧米や日本は『文明化』という立派な大義名分を掲げて中国へ介入してくるが、結局は中国を弱体化させて中国から搾取したいだけではないか!」という主張です。
欧米や日本が中国と比べて倫理的に劣っていること印象づける記述ですが、いま香港やウイグルの人権問題で欧米や日本が中国を批判すると、中国人にとってはこの時代のことがフラッシュバックするようです。
つまり「人権保護なんて大義名分に過ぎず、実際は中国を弱体化させてアメリカの覇権を維持し、様々な手段で中国から搾取したいだけではないか?」ということです。
欧米列強の中国分割を背景にして欧米列強への反発が強まり、義和団事件という事件が起こります。
義和団という団体が起こした排外運動に乗じて、清の西太后が欧米列強に宣戦布告してしまうのですが、8ヶ国(日本、ロシア、イギリス、フランス、アメリカ、イタリア、ドイツ、オーストリア=ハンガリー)の軍隊に鎮圧されます。
この出来事で、清は日清戦争を越える額の賠償金(利息を含めて9億8000万両、当時の清の歳入の10倍以上)を負わされました。
義和団事件については日本史というよりは中国史なので詳細は割愛しますが、ポイントは日清戦争で日本が中国をボロボロにするきっかけを作ったということです。
琉球や朝鮮などの朝貢国を清から切り離し、世界に清が弱い国であることを知らしめたのが日本だったということです。
日本と中国の立場が逆転
日清戦争では、清の方が軍備面でも優れていたので、島国の小国である日本など簡単に勝てると清は油断していたようです。
逆に日本にとって中国は、卑弥呼の時代からずっと「世界の中心」でしたし、明治維新後初めての対外戦争だったので、全精力を集中させて本気で戦いました。
私は学生の頃に図書館で「日清戦争実記」という当時の雑誌(新聞?)を読んだことがあるのですが、「(663年の)白村江の戦いの恨みをはらす」といったことまで書かれており、挙国一致で戦争に臨んでいたようです。
このように、当時の日本にとって中国は大きな存在であり、尊敬の対象でした。
しかし日清戦争の結果、日本と中国の立場が逆転したようです。
日清戦争後、中国は日本の明治維新を手本に政治を改革するため、多くの留学生が日本へ学びにくるようになりました。
一方、日清戦争で自信を深めた日本は中国のことを見下すようになり、それが表面化したのが対華二十一か条の要求です。
日露戦争後の1908年には辰丸事件という事件をきっかけに中国で日本製品不買運動が起こりましたが、全国的なものではなく、初めての大きな反日運動は対華二十一か条要求の後と言われています。
対華二十一か条の要求(1915年)
日清戦争のあと、中国の歴史教科書に日本が登場するのは対華21か条の要求です。中国の歴史教科書には日露戦争に関する記述は見当たりません。
日露戦争は日本とロシアの戦争だったにも関わらず中国国内で戦われたため、民間の中国人もだいぶ犠牲になりましたが、アジア人国家の日本が白人国家ロシアに勝利した日露戦争については中国人も歓迎していたようです。
さて1912年に中華民国が成立し、1914年に第一次世界大戦が始まりました。
日本は日英同盟を理由に第一次世界大戦に参戦し、敵対国ドイツが中国に持っていた租借地を占領し、中華民国の袁世凱に対価二十一か条を要求します。
この部分について中国の歴史教科書では、上巻の中国史と下巻の世界史の両方で記述があります。
1914年,对德国宣战的日本占领了德国在中国山东半岛的租借地,第二年便向中国提出“二十一条”要求,企图灭亡中国。下巻 P86
1914年、ドイツに宣戦布告した日本は、中国の山東半島にあったドイツの租界を占領し、翌年には中国を滅ぼすことを意図して中国に二十一カ条の要求を突きつけた。
対華二十一か条の要求が中国の滅亡を目的としたものだったと考えている日本人は少ないと思います。
ナチスがユダヤ人の絶滅を目的としていたように、日本が中国の絶滅を目指していたというストーリーへ持っていきたいのかなと個人的には感じました。
実際には、「中国の滅亡を目指す」という大きな計画はなく、日本国内の様々な立場からの要求を抑えきれずに膨らんだことが原因のようです。
ウクライナの問題に例えて言うと、プーチンがゼレンスキーに向かって「ウクライナ政府に政治顧問、経済顧問、軍事顧問として有力なロシア人を雇用すること」と要求するようなもので、あまりにも現実離れした要求でした。
1915年1月,利用第一次世界大战爆发,欧洲列强无假东顾的时机,向袁世凯提出把中国的部分领土以及政治,军事,财政等置于日本控制下的“二十一条”要求。经过谈判,袁世凯最终于1915年5月被迫签订不平等的“中日民四条约”。上巻 P121
※「中日民四条約」は「民国4年(1915年)の条約」という意味ですが、複数の条約から構成されており、調べたところ対応する日本語の条約名はないようです。
1919年1月,中国作为第一次世界大战的战胜国之一,参加了在法国巴黎召开的“和平会议”。中国代表提出废除外国在中国的一切特权,取消“二十一条”等,但英,美等国操纵的和会拒绝了中国代表提出的正义要求,竟决定将德国在中国山东的权益转让给日本。这一消息传到国内,激起人们郁积已久的愤怒,各界人士和爱国团体纷纷发表通电,斥责这一无无理行径,并且要求中国政府坚决维护国家主权。这成为五四运动爆发的导火索。上巻 P128
なお山東省については「山東懸案解決に関する条約」が日本と中国との間で締結されて(有償で)中国へ返還されました。
戦間期(1915年~1930年)
第一次世界大戦後、第二次世界大戦へ向かっていく時期の記述です。
第一次世界大战结束后,意大利,德国和日本产生了法西斯组织。1921年,冈村宁次,东条英机等日本军人订立密约,要求“消除派阀”、刷新人事、改革军制、建立总动员态势“。是日本军部法西斯运动开始。下巻 P102
第一次世界大戦終結後、イタリア、ドイツ、日本でファシスト組織が生まれ、1921年には岡村寧次や東条英機ら日本の軍人が「派閥の排除」「人事の刷新」「軍制の改革」「総動員態勢の確立」を求める密約を交わした。 これが日本軍におけるファシズム運動の始まりであった。
1921年の日本と言えば大正デモクラシーの真っ只中で、まだ軍部が暴走し始める時期ではありません。
この「1921年の密約」が何のことを指しているのか調べたところ「バーデン・バーデンの密約」という密約があり、東京裁判で「日本軍国主義の端緒」として取り上げられたそうです。
この密約を交わしたのは岡村寧次、永田鉄山、小畑敏四郎の3名で、東条英機は含まれていませんが、東条英機をヒトラーと同じように描きたいという意図を感じます(あくまで私の個人的な感想です)。
つまり、東条英機が第一次世界大戦後からファシズム政権の樹立を目指して活動し、世界大恐慌に乗じて勢力を強め、中国を侵略したというストーリーです。
実際の日本は、強いリーダーシップを発揮できる人が誰もいなかったことこそ問題で、張作霖爆殺事件や満州事変で軍の内部統制が崩壊し、二・二六事件で軍部に反論できる人がいなくなり、誰も暴走を止められなくなって戦争へ突き進んでいったというのが実態だと私は思います。
しかし中国としては「日本の悪い軍国主義者が初めから征服の意図を以て中国を侵略した」という、計画的な侵略だと記述したいようです。
中国は秦の始皇帝の時代から、圧倒的な権力者が強力なリーダーシップを発揮して国を動かしてきた歴史を持つので、日本でよくある「リーダーが組織の暴走を止められない」という感覚は理解できません。
今のビジネスでも、中国企業ではリーダーシップのある経営者がトップダウンで臨機応変にビジネスを進めますが、多くの日本企業では平社員から社長まで稟議書を回して、時間をかけて意思決定をし、「一度みんなで決めたことは役員も含めて誰も変更できない」という文化ではないでしょうか?
中国人は「これだけの大々的な軍事行動が行われたのだから、誰か悪いリーダーがいるはずだ」と考えるはずで、日本の組織でよくある「個々人はそこまで極悪人でもないのに、誰も空気に逆らえず、組織全体としてはとんでもない方向へ暴走する」という文化は理解できないのではないかと思います。
戦前は天皇の名義で軍隊が動かされましたが、その天皇自身は責任を負わない(君主無答責)というルールになっており、学者の丸山真男はこれを「無責任の体系」と呼びました。
20世纪20年代,在美国经济空前繁荣的表象下,资本主义的基本矛盾即生产社会化与生产资料资本主义私人占有之间的矛盾并没有解决。1929年10月24日,纽约华尔街股票市场价格狂跌,人们大量抛出股票,证券市场陷入恐慌,这一天被称为“黑色星期四”。随后,一场空前严重的经济大危机卷了美国及至整个资本主义世界。面对这场危机,美国实行了“新政”,德国和日本则建立了法西斯政权。下巻 P102
1920年代、アメリカでは空前の経済的繁栄が見られたが、資本主義の基本的矛盾、すなわち生産の社会化と生産手段の資本主義的私的所有との間の矛盾は解決されていなかった。1929年10月24日、ニューヨークのウォール街の株価は大暴落し、人々は大量に株式を売りに出し、株式市場は恐慌に陥った。 この日は「黒い木曜日」と呼ばれた。 その後、未曾有の経済危機が米国と全ての資本主義世界全体を飲み込んだ。 この危機に直面して、アメリカは「ニューディール政策」を実施し、ドイツと日本はファシズム政権を樹立した。
マルクス主義の歴史観から資本主義を批判し、資本主義の矛盾がファシズムを生んだと説明しています。
そもそもファシズムの定義は人によって分かれており、ある種のレッテル貼りに過ぎないという意見もありますが、中国の教科書は当時の日本・ドイツ・イタリアをファシズムと定義して徹底的な糾弾を加えています。
法西斯主义以极端民族主义为基本特征,反对自由主义和共产主义,主张对内实行恐怖独裁统治,对外侵略扩张,发动战争,争霸世界。面对1929年的经济大危机,法西斯分子鼓吹通过战争寻找出路。下巻 P102
ファシズムは、極端な民族主義を基本的な特徴とし、自由主義や共産主義に反対し、国内的には恐ろしい独裁政治を実行し、対外的には侵略と拡大を提唱し、戦争を発動して世界の覇権を争う。1929年の世界大恐慌に直面し、ファシズム分子は戦争によって打開策を見出すことを提唱した。
日本でも高橋是清がニューディール政策と一部重複する政策を実施しようとしましたが、二・二六事件で銃撃されたので軍部の膨張を招きました。
中国の教科書にはどうして日本で軍部が台頭してきたのか経緯の説明がないので、倭寇や朝鮮出兵、武家の台頭などと同様に「日本は何か問題が起こるとすぐに軍事力で問題を解決しようとする国」という印象を受けますね。
日本と中国のどちらが平和主義なのか?
ここから、平和を愛する中国が横暴な日本に対して正義の戦争を挑むストーリーが展開されていきます。
しかし実際には中国でもキングダムや三国志の時代は軍事力が重視され、天下が分裂すると新しい王朝が軍事力で全土を統一しました。
しかも中国は、敵の城を攻め落とすと住民を皆殺しにしたり激しい略奪を行うことも多かったので、日本人の私達は日本よりも中国こそ軍事力重視の暴力的な国というイメージがあります。
もっとも極端な例を挙げると、17世紀(明末)に四川省で張献忠という人物によって、住民の95%を殺害するという、ヒトラーやポルポトを超える、人類史上稀に見るジェノサイドを行われました(16世紀末に300万人だった人口が17世紀末は1万人に減少)。
中国の歴史書は殺害者数が誇張されている可能性もありますが、キリスト教宣教師の記録でもジェノサイドは報告されており、恐ろしいことが行われたのは間違いありません。
実際、この時代を以て古代四川後は消滅してしまい、清の時代になって他の地域から人が移住してきたので、今の四川省の人達は標準中国語を話しています(湖広填四川)。
日本で例えると、鹿児島県民が皆殺しにされて鹿児島弁が消滅し、今の鹿児島に住んでいる人は他県から移住してきた標準語を話す人たちになってしまったという感じです。
中国ではこのような容赦ない残酷な史実がたくさんありますが、日本人はこのような事実を挙げて中国に対して凶暴なイメージを持ちます。
しかし日本史に詳しい中国人にこの話をしたら
もちろん中国にも暴力的な歴史はあっただろうが、それが積極的に肯定されたわけではない。皇帝にも統治の正当性が求められた。もし皇帝が腐敗して民衆から見放されれば農民反乱が起きて易姓革命が起きる。中国人は正義を大切にするから、中国を統治するには大義名分が重要だ。
日本人は「長いものに巻かれろ」「お上には逆らえない」って感じで、軍事独裁政権に対する反発も起こらなかっただろ?日本は源平合戦であれ徳川幕府であれ単に「強い奴が偉い」「暴力が全て」って感じで、日本の歴史からは日本人が大義名分よりも暴力を重視する価値観を持っていると感じるよね。
などと言われたことがあります。
日本の武家政権時代は「ご武威」が強調されましたが、「ご武威」とは要するに「俺はケンカが強いんだぞ!どうだ凄いだろ!怖かったら俺の言うことを聞け」という権威です。
徳川政権が政権を維持できたのは徳川氏に徳があったからでも、徳川氏が国民の生活を第一に考えていたからでもなく、徳川氏が強くて逆らえないから(ご武威がある)という建前でした。
中国の教科書には「ご武威」という単語は出てきませんが、中国人が書いた日本史関係の本を読むと、このような価値観を挙げて日本人の武力重視の傾向(つまり日本人の考え方が野蛮だということです)を指摘するものを見かけます。
一方の日本人は、聖徳太子の十七条憲法に「和を以て貴しとなす」と書かれていたことや、平安時代の西暦810年から1156年まで350年間も死刑が行われなかったことを例に挙げて、日本は昔から平和主義の国だったと考える人が多い印象です。
織田信長の比叡山焼き討ちは3000人程度(実際はもっと少なかったという話もあります)でしたが、それでも「残虐だ」と言われたということは、日本では戦国時代ですら民間人の無差別虐殺は行われていなかったのではないかと思います。
しかし実際には、鎌倉武士には通行人を手あたり次第に殺害して生首を庭に飾っておく習慣があった(参考記事)など、実際の日本には中国人のイメージ通りの野蛮な面もあったようです。
どちらが平和的なのか?と議論してもキリがありませんが、いずれにしても日本と中国の考え方の違いはかなり根深いことが分かります。
次回は、日本が戦争へ突入して敗戦するまでの記述をご紹介します。