中国の高校歴史教科書に登場する日本史1 ~古代から明治維新編~

よく「中国では反日教育が行われている」と言われますが、実際のところ中国の歴史教科書には何が書かれているのでしょうか?

そこで本記事では、中国の高校歴史教科書から日本に関する記述を引用し、日本語へ翻訳してご紹介します。

「中国との歴史認識問題」というと南京事件などがよく話題になりますが、実は古代史から日中間の認識にズレがあります。

多くの日本人は日本のことを「聖徳太子の時代から、日本は『和を以て貴しと為す』をモットーとした平和主義の国だ」と考えていると思いますが、中国の教科書に出てくる日本のイメージは全く異なります。

事実の切り取り方を変えるだけでここまで印象が変わるのか!とメディアリテラシーの勉強にもなりました。

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引用した中国の高校歴史教科書

中国 歴史教科書

私が参考にしたのは人民教育出版社の「普通高中教科書 歴史」の上下巻(2019年版)です。

上巻が中国史、下巻が世界史ですが、中国史・世界史のどちらにも日本は登場します。

江戸時代までの日本の登場は少ないですが、実は古代から江戸時代までの記述から、中国が日本のことをどう見ているかがよく分かります。

華夷思想(中華思想)とマルクス主義

中国 愛国心

中国の歴史教科書を方向づける二大思想は華夷思想(いわゆる中華思想)とマルクス主義です。

この2つの考え方について予め理解しておいた方が中国の歴史教科書を理解しやすいので、教科書の記述をご紹介する前にまず華夷思想マルクス主義について簡単にご紹介します。

中国は世界一の先進国だった?

多くの日本人は、大昔(古代ギリシャ・ローマの時代)からヨーロッパの方が中国よりも発展していたと考えていますが、中国人は違います。

中国人は、5000年以上前から19世紀前半まで一貫して中国こそ世界一の先進国で、ヨーロッパはもちろん、イスラム王朝やインドよりも中国の方が遥かに発展していたと考えています。

中国の教科書の記述を見てみましょう(日本語訳は私が訳したものです。もし誤りがあればコメント欄でご指摘ください)。

中国是一个有着五千多年文明史的大国,在历史上曾长期走在世界前列。在世界四大文明古国中,唯有中华文明有国有史一直传承到今天。中国古代的四大发明造福全世界。16世纪以前,影响人类生活的重大科技发明有300项,其中中国人的发明占175项。英国人李约瑟在《中国科学技术史》中写道,“在现代科学技术登场前十多个世纪,中国在科技和知识方面的积累远胜于西方”

思想政治Ⅰ 中国特色社会主義 P47

日本語訳

中国は5000年以上の文明の歴史を持つ大国であり、長い間、歴史において世界の最先端を歩んできた。 世界の四大古代文明の中で、現代までその歴史が受け継がれているのは中国文明だけである。 古代中国の四大発明は全世界に恩恵をもたらした。16世紀までに、人類の生活に影響を与えた300の主要な科学技術発明うち、175は中国人が発明したものだった。 イギリス人のジョゼフ・ニーダム (1900-1995)は、『中国科学技術史』の中で、"近代科学技術が登場する以前の10世紀以上にわたり、中国の技術と知識の蓄積は西洋のそれをはるかに凌駕していた "と書いている。

欧米や日本では中国は新興国として分類されますが、中国から見れば欧米や日本こそ最近200年程度で発展した新興国で、中国は四大文明の時代から一貫して世界一の先進国だったという強い自負があります。

ヨーロッパはずっとバラバラだったのに対して中国は秦の始皇帝が2200年前に広域を統一し、道路や水路などのインフラを大々的に整備したため経済が発展したのですね。

実際に、近代以前のGDPは2000年前から19世紀初期まで一貫して中国かインドが世界一だったようで、必ずしも中国の理解が誤りとは言えません(参考URL:Wikipedia(中国語))。

数千年に渡って世界で最も先進的だった中国が、何故かここ最近200年ほどは欧米に追い抜かされてしまったので、「中国が世界一」という本来の状態へ戻そうという考え方が「中華の復興」です。

中華の復興

これは「中国式の現代化(近代化)によって中華民族の偉大なる復興を全面的に推進しよう」と書かれています。

「中華民族の偉大なる復興」というスローガンは街中いたるところで見られますが、これは中国人の心の琴線に触れるようです。

中国は常に世界の文明の中心で、欧米や日本を含む外国に対して一方的に物を教えてあげる立場だったと理解しています。

このような背景から形成されたのが華夷思想(いわゆる中華思想)です。

華夷思想(中華思想)とは

華夷思想とは、世界の中心に中華の皇帝がおり、皇帝から遠ざかれば遠ざかるほど野蛮になるという考え方です。

「中華」と「野蛮」がキッチリ分かれている二律背反的な考え方ではなく、皇帝から遠ざかるに連れて徐々に中華皇帝の光が届かなくなり、暗黒世界になっていくという世界観です。

光の強さ 名称
最強 皇帝 中国皇帝
中華 中国
少し強い 朝貢国 朝鮮・琉球など
暗い 互市 日本など
暗黒 化外 インド・欧米など

上の図の「光の強さ」というのはイメージしやすいように私が勝手に作りました。

世界の中心には天から天命を授かった中華皇帝がおり、皇帝は全世界の中心に君臨している存在なので「国境」や「領土」の概念には縛られません。

次に、朝鮮や琉球などは中国の属国として朝貢をしていました(朝貢国は時代によって変わりますが、上の図は清の時代を基準にしています)。

日本は中国に朝貢をせず、貿易だけしていたので「互市」と呼ばれ、貿易すらしていなかった国は「化外」と呼ばれました。

上の図では欧米を「化外」としていますが、アヘン戦争以前のイギリスは中国から茶を輸入するために朝貢の儀式をさせられていたので、朝貢国扱いです。

中国人の華夷思想について

日本人

中国人の自意識過剰は困ったもんだ。中国人は国民性に問題がある。

という意見の人も多いですが、「自分達の国は特別だ」と考えたがるのは中国に限らず世界共通だと思います。

例えばアメリカには「アメリカ例外主義」という考え方がありますし、インド人と話すと

インド人

アメリカのグローバル企業の多くはインド人がCEOなんだから、今の世界を動かしているのはインドですね

などと言ったりします。

現代の中華文明の象徴・中国の特色ある社会主義

中国 スローガン

このように自分自身を世界の中心に置いてきた中国でしたが、現代の中華文明の中心は中国皇帝ではなく中国共産党中央であり、中華文明の光はマルクス主義と言えます。

中国の歴史教科書の背景にはマルクス主義の唯物史観があります。社会は

原始共産制→古代奴隷制→中世封建制→近代資本主義→社会主義革命を経て共産主義へ

と発展していくという考え方です。

マルクス主義の視点では、資本主義とは資本家(金持ち)が労働者(貧乏人)をこき使って上前をはねることで成り立つ搾取システムです。

社会主義は世界から搾取をなくし、労働に応じた分配を目指す考え方なので、資本主義社会の西洋よりも社会主義の中国の方が文明的だといえます。

欧米による植民地支配も、資本主義が帝国主義段階へと進化して世界の人民を搾取したというストーリーで書かれています。

戦後の世界はアメリカを中心とする資本主義国が世界を支配しているため、中国の本音を率直に言うと世界文明の中心である中国が、野蛮な欧米の搾取システムから世界の人民を守らなければならないと使命感に燃えているようです。

但し、中国の社会主義はマルクス・レーニン主義の完全コピーではなく、中国が大幅にアレンジしているので、これを「中国の特色ある社会主義」と呼びます。

世界の中心にいる中国共産党が放つ「中国の特色ある社会主義」という文明の光が、アメリカに支配された現代の暗黒な世界へ希望の光を照らしていくというストーリーですね。

中国によると、欧米の政治体制は資本家が労働者から効率良く搾取するための仕組みに過ぎません(なぜなら、権力から資本家を排除しない限り、お金の力で金持ちが権力の座に居座り、金持ちに有利な政治を行うからです)。

人民を代表する共産党が政権につく人民民主独裁の体制こそ、真の意味での民主主義で、世界の人々を搾取から解放することができるそうです。

「朝鮮民主主義人民共和国って、一体どこが民主主義なんだろう?」と疑問に思っていましたが、社会主義国の民主主義とはこのようなロジックだったのですね。

日本人読者の99%以上が強烈な違和感を覚える世界観かと思いますが、この世界観を前提に中国の歴史教科書を読むと、内容を理解しやすいはずです。

中国の歴史教科書はマルクス主義の唯物史観と、伝統的な中国の華夷秩序(いわゆる中華思想)がミックスした独特の記述になっています。

念のために言いますと、中国の教科書に書かれているのは中国政府の公式見解なので、全ての中国人がそう理解しているわけではありません。

日本でも学校の先生のお説教やマスコミの宣伝を間に受ける人と受け流す人がいますが、それは中国も同じです。

日本人にも色んな人がいますが、日本のマンガやアニメに慣れ親しんだり、日本へ旅行をしてリアルな日本の様子を知っている中国人も大勢います。

この記事の目的は、あくまでも中国の高校で教えられていることをご紹介することだけです。

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弥生時代から古墳時代まで

吉野ヶ里遺跡

それではここから、中国の歴史教科書に書かれた日本史をご紹介します。近代以前の日本史は、戦前の日本の大陸進出へ繋がるストーリーとして描かれます。

明治維新までの日本に関する記述は分量が少ないので、全てご紹介します。

私のコメントもツラツラと書いていますが、私は歴史学者ではないので、素人の感想を書いているだけです。

もしご意見がある方はコメント欄にお願いします。

さて、旧石器時代から古墳時代までの歴史は1行で終わりです。

日本是中国一衣带水的邻邦。秦汉之际,中国移民把冶铁和水稻种植技术带到日本,推动了日本社会的发展。下巻 P25

日本語訳

日本は中国と一衣帯水(細い海を隔てただけという意味)の隣国である。秦や漢の時代に中国の移民が冶金や水稲耕作の技術を日本へもたらし、日本社会の発展を促進した。

旧石器時代と縄文時代に関する記述は何もなく、いきなり弥生時代の稲作伝来の話から始まります。

「中国人がサポートしたお陰で日本が発展しました」ということですね。逆に言うと、日本は中国のサポートがなければ発展する力がなかったと解釈できます。

なぜなら、中国では「中華文明の中心地である中原(現在の河南省)で数千年前に文明の光が灯され、その光が時間をかけて世界へ広がっていった」と理解されているからです。

教科書にはハッキリかかれていませんが、「長いあいだ暗黒世界だった日本にも、弥生時代に入ってやっと中華文明の光が届いた」と読み取れますね。

この中国人の感覚がよく分かる衝撃的な展示を中国の広東省広州市にある南海神廟という観光地で見つけたのでご紹介します。

広州 南海神廟

広東省は中華文明の中心である河南省(中原地区)から遠く離れた中国最南端に位置し、当時は「百越の地」と呼ばれていましたが、このパネルでは以下のように紹介しています。

中华民族在三皇五帝的时代里,中原地区进入了先进的原始社会。然而在岭南都是蛮荒的百越地区,被称为南蛮。由于山岭的阻隔,交通的不便,中原的先进文化难以传入。

日本語訳

中華民族は、三皇五帝の時代に中原地区で高度な原始社会に入った。 しかし、嶺南は南蛮と呼ばれる野蛮な百越地区だった。山脈という障壁と交通の不便さから、中原の先進文化が伝わりにくかったのだ。

このパネルは中国の世界観をよく表現しており、「嶺南」を「日本」に置き換えると中国から見た日本のポジションを理解することができます。

日本バージョン
中華民族は、三皇五帝の時代に中原地区で高度な原始社会に入った。 しかし、日本東夷と呼ばれる野蛮な倭国地区だった。という障壁と交通の不便さから、中原の先進文化が伝わりにくかったのだ。

なお「南蛮」は南にいる野蛮人、「東夷」は東にいる野蛮人という意味です(平安時代には、京都の貴族は関東の人達のことを東夷(あずまえびす)と呼んでいました)。

そんな東の野蛮人である日本が、世界の中心である中華皇帝にケンカを売ってしまったことがありました。

小中学校の授業で習ったと思いますが、607年に第2回遣隋使が隋の煬帝に渡した手紙に

「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」

と書かれていたので、隋の皇帝が激怒しました(このエピソードは「隋書東夷伝(隋の時代に中華文明の東にいた野蛮人に関する歴史書という意味です)」に書かれているそうです)。

天子は世界中で中華皇帝ただ1人しかいないのに、日本が自分達の王(今でいう天皇)を勝手に「天子」と呼び、隋の皇帝と対等な立場に立とうとしたため、皇帝が激怒したのでした。

小学生の頃は隋の皇帝がどうして怒ってるのかよく分かりませんでしたが、中国人の感覚を知った今は、当時の中国人が「東の野蛮人の分際で中華の皇帝と対等な立場に立とうとするなんて、野蛮にもほどがある!」と激怒したことが容易に想像できます。

華夷思想の枠組みでは

  • 世界の文明の中心である中華は一流
  • 中華文明の素晴らしさを理解できる周辺地域(朝貢国など)は二流
  • 中華文明を理解することすらできない人達(互市・化外)は三流

と位置づけられます。

日本は「東の野蛮人は華夷秩序を理解していない!なんてKYなんだ!」と隋の皇帝を激怒させましたが、広東省にいた「南の野蛮人」の人達は中華文明の素晴らしさを理解できたようです。

先ほどの南海神廟の展示パネルでは、紀元前3000年頃に帝の子供が中原から遥々と広東省へ来て、地元の野蛮人に中華文明の光を伝えて歓迎されたという伝説が紹介されています。

民众在他的率领下,荒蛮之地焕然一新,虽不及中原,但也比过去文明多了。

日本語訳

民衆は彼のリーダーシップの下で荒れ果てた野蛮な土地を一新し、中原には及ばないものの、以前と比べればずっと文明的になった。

「荒蛮之地」という表現は現代の日本人にとっては強烈に違和感のある表現で、日本では公の場所で使用されるような表現ではないと思います。

例えば、もし日本の博物館の展示に「江戸時代までの北海道は荒れ果てた野蛮な土地だったが、明治時代に日本政府の支配が北海道へ及んだことで一新され、東京ほどではないものの北海道も昔に比べれば少しは文明的になった」などと書かれていたら、間違いなく大問題になります。

明治時代の文明開花の時代には、福沢諭吉の「文明論之概略」を始めとして文明社会を目指すことが非常に重視されましたが、現代の日本では「文明社会」を「野蛮・未開」と対比すると物議を醸しますね。

しかし現在の中国では「文明的であること」が非常に重視されています。

中国 トイレ

例えば、これは中国全国の男性の小便器でよく見かける注意書きですが「あなたがもう一歩だけ前に出れば、文明は大きく前進します」のような意味です。

一方、現在の日本では縄文時代以前を「野蛮で遅れた未開の暗黒時代」などと考える人は少なく、どちらかと言うと最近は「縄文人から学べ」「文明の発展よりも自然との共存」という風潮が強いと感じます。

例えば宮崎駿のアニメ「もののけ姫」も、文明の中心ではなくマイノリティの側から歴史を描き、文明批判のメッセージも含めて大ヒットしましたが、この考え方の違いが日本人と中国人の歴史観の違いにも影響を与えていると思います。

飛鳥時代

法隆寺

続いて飛鳥時代です。

6-7世纪,日本出现严重社会危机。646年,孝德天皇颁布改新诏书,开始改革,因其年号是“大化改新”。经过约半个世纪的改革,日本模仿中国建立了中央集权国家。

P25

日本語訳

6−7世紀、日本では深刻な社会危機が発生した。646年、孝徳天皇は改新の詔を発布し、改革を開始したが、これは年号に因んで「大化の改新」という。約半世紀の改革を経て、日本は中国を模倣して中央集権国家を築いた。

ここでもやはり、日本に対する中国の貢献が強調されています。

「日本では深刻な社会危機が発生した」とあり、乙巳の変や壬申の乱などを指しているのではないかと思いますが、そもそも当時の日本社会の危機の背景にあるのは隋・唐(中国)の高句麗遠征です。

当時、隋・唐は何度も高句麗を攻撃し、663年の白村江の戦いで百済を滅ぼしました。

百済と親交の深かった日本は、「次は唐が日本へ攻めてくるのではないか?」と心配し、攻め込まれないよう慌てて律令体制を整えたのでした。

隋・唐の高句麗遠征や白村江の戦いについては、中国が加害者となる事実なので中国の歴史教科書には記述されていません。

日本は白村江の戦いで唐の脅威を感じ、大宝律令を発令したり、藤原京を整備したり、貨幣を導入したりと、当時の日本社会の実情と合わない中国の制度を慌てて整備したのでした。

日本人の私からすると、唐の膨張に脅威を感じて日本社会が混乱したことを棚に上げて、中国が日本のお手本となったことだけを紹介しているのはアンバランスな印象です。

しかし日本も、自分達が被害者だったノルマントン号事件(イギリスの船が沈んだ時、イギリス人は全員助けられたのに日本人は全員見殺しにされた明治時代の事件)は小中学校で習うのに、日本が戦時中に行った欧米人の捕虜虐待については詳しく勉強しません。

逆に私がイギリス人と話した時は、戦時中の日本の捕虜虐待については詳しかったですが、ノルマントン号事件は知りませんでした。

アメリカも、パールハーバーや911はよく覚えていますが、アメリカ軍がアフガニスタンやイラクで行った民間人誤爆やアルグレイブ刑務所の捕虜虐待についてはそこまで興味を持っているように見えません。

このように、どこの国も自国が被害者になった歴史を強調したがる傾向があるのかも知れません。

平安時代

紫式部 石山寺

奈良時代に関する記述は何もなく、次は平安時代です。

平安時代の日本では律令制という中華文明の光が衰え、再び暗黒時代へと突入します。

10世纪,日本的中央集权体制开始瓦解。随着新土地的开垦,贵族,佛寺和神社广占土地,形成庄园。贵族及庄园领主为保护财产豢养武士,武士集团的重要性日益增强。下巻 P25

日本語訳

10世紀、日本の中央集権体制は瓦解し始めた。新しい土地の開墾に伴って、貴族、寺院や神社は広い土地を占有し、荘園を形成した。貴族と荘園領主は財産を守るために武士を養い、武士団の重要性は日増しに強まっていった。

律令制は日本の実情に合わなかったため維持できず、墾田永年私財法などが発令されて荘園が発達しました。

このように、中国から伝わった中央集権体制が崩壊し、軍人が台頭する様子が書かれています。

ここで、欄外に「武士とは何か?」が解説されています。

武士在日本最初被称为“侍”,意思是卫士或随从,主要从事与战争有关的活动下巻 P25

日本語訳

武士は日本において、当初「侍」と呼ばれていた。その意味は護衛や随行員の意味で、主に戦争に関する活動に従事していた。

以上の記述は日本人の私達が読んでも特に違和感はないでしょう。

しかし、もし私が日本について何も知らない中国人の高校生だったら、「そうか、日本は大昔から軍人が統治して国だきたから、DNAレベルで戦争が大好きな戦闘的な国民性なんだな」という印象を受けると思います。

鎌倉時代

八戸 根城

ここから武家政権の成立について非常に詳しい解説が始まります。

貴族や朝廷については何の解説もなかったのに、なぜ武士や幕府については詳しく説明しているのでしょうか?

私の推測では、武士や幕府について詳しく説明することで、日本が長年に渡り軍人の武力によって支配されてきたことを強調したい狙いがあるのではないかと感じます。

前提として、中国では2500年前から諸子百家と呼ばれる様々な思想家が現れ、長年に渡り高度な官僚制が機能してきたことを中国人が誇りに思っていることについて理解する必要があります。

中国の平等主義と学問を重んじる精神を最も象徴するのが科挙試験です。

科挙は西暦598年から1905年まで約1300年に渡って行われた公務員試験として日本でも有名ですが、中国人はこのペーパーテストに対して非常に強烈な思い入れを持ってるようです。

その証拠に、中国全国どこへ行っても科挙に関連する博物館があり、地元の歴代の科挙合格者名簿や状元(科挙試験の主席合格者)の歴代名簿、合格者の活躍を讃える展示があります。

そして多くの中国人観光客が、この地元の科挙合格者名簿を熱心に眺めたり、写真に撮ったりしています。

科挙名簿

これは湖南省の例ですが、唐の時代の827年に李さんという人が湖南省で初めて科挙試験に首席合格したそうです。

日本人の私には、1000年以上前の公務員試験の合格者名簿を郷土の誇りとして展示したり、それを嬉々として見学する中国人の感覚は全くわからないのですが、中国人はそれだけ科挙に対する思い入れが強いのでしょう。

山西省の博物館へ行った時は、「山西省は明と清の時代に首席合格者(状元)を輩出しませんでしたが、決して山西省に優秀な人材がいなかったわけではありません。山西商人が全国で活躍していたことから分かる通り、山西省は商業を重視する地域だったので、優秀な人材が科挙を受験せず商人になったのです」などと、長々と言い訳が書かれていました。

科挙試験は男性ならほぼ誰にでもチャンスがある公平なテストでしたが、まだ世界中どこでも身分や家柄が重視されていた1000年以上も昔の時代に、中国だけは公平な公務員試験を実施していたということです。

これは中国が先進的で平等主義であり、しかも平和的に優秀な人材が選ばれていたことの象徴だと中国人は考えています。

日本でも平安時代には科挙を手本とした試験の導入が試みられたものの、すぐに骨抜きになってしまいました。

冒頭で「19世紀まで中国は欧米よりも進んでいたと中国人は考えている」と書きましたが、科挙試験はその理由の1つでしょう。

中国革命の父である孫文の言葉を紹介します。

孫文

日本語訳

試験制度が導入されたのは英国が最初で、米国はわずか20~30年の歴史しかない。 現在では、各国の試験制度はほとんどイギリスのそれをモデルにしている。 イギリスの試験制度は、もともと中国から学んだものである。 従って、中国の試験制度は世界で最も古く、最も優れた制度である。

イギリスの高等文官試験が始まったのは19世紀らしく、その際に中国の科挙も参考にしたらしいので、中国はイギリスよりも1300年も進んでいたことになります。

このように「欧米の⚪︎⚪︎は中国の⚪︎⚪︎を手本としている」というのは中国国内ではよく見かける表現です。

さて、中国人がペーパーテストの公務員試験に強烈な誇りを持っていることを念頭に置きつつ、歴史教科書の日本の鎌倉武士に関する記述を見ていきましょう。

12世纪末,武士集团的首领源赖朝在镰仓建立了自己的军事机构ー幕府,并从朝廷获得了镇压叛乱,征收赋税等权力,日本进入幕府政治时期。在这种体制下,以天皇为首的朝廷只保有名义上的中央政府称号,以将军为首的幕府掌握实权。将军与武士结成主从关系,武士成为将军的家臣。将军赐予武士官职和俸禄;武士对将军宣誓效忠,并承担纳贡和兵役等义务。下巻 P25

日本語訳

12世紀末、武士団のリーダーである源頼朝は鎌倉に自身の軍事機構である幕府を設立し、さらに朝廷から叛乱の鎮圧や徴税権などの権力を獲得して、日本は幕府政治の時期に入った。このような体制下では、天皇を長とする朝廷は単に名義上だけ中央政府の称号を保つに留まり、将軍を長とする幕府が実権を握った。将軍と武士は主従関係を形成し、武士は将軍の家臣となった。将軍は武士に官職や俸禄を賦与した。武士は将軍に対して忠義を誓い、納税や兵役の義務を承諾した。

日本人や欧米人は武士に対して「武士道!サムライ!クール!」という感覚を持っているかも知れませんが、武士とは要するに軍人です。

武士は、公平なペーパーテストに合格した公務員ではありません。

中国人がこの教科書の記述を読むと、幕府とはミャンマーの軍事政権やリビアのカダフィ大佐と同じような軍事独裁政権であり、日本では700年以上に渡り武力によって恐怖政治が行われてきたという印象を持つでしょう。

もし私が日本のことを何も知らない中国人なら

中国人

日本では何百年も軍人がチヤホヤされた軍事独裁国家だったのか。学問を重んじ、誰でも公務員になれる公平な科挙試験が行われてきた平和的な中国とは大違いだな。中国は1000年以上も平和主義の国だったから、20世紀に入ってから暴力的な軍国主義国の日本に侵略されてしまったのか...。

と理解するでしょうね。

このように、中国人がこの教科書を読んだら日本に対して「日本には何の思想も法もなく、学問よりも暴力が重視され、軍事力だけで統治された野蛮な国」という印象を持つと思います。

これは私個人の感想ですが、日本は軍人が支配していたからこそ、幕末には欧米の軍事力のレベルを理解することができ、中国や朝鮮と比べていち早く対策を講じることができたというメリットもあったのかなと思います。

さて、鎌倉時代の記述はここで終わりですが、中国が加害者であった元寇に関する記述はありません。

元は中国の王朝

「元寇はモンゴル人による侵略なので、中国とは関係ないのでは?」と思うかも知れません。

しかし中国では、漢民族だけでなく、ウイグル族、チベット族、モンゴル族などの少数民族も合わせて一つの「中華民族」を形成していると規定しています。

モンゴル民族は中華民族に含まれるので、中国の教科書で「元は中国の王朝」と記述されています。

元の版図にはチベットも入っていたので、「中国は元の時代からチベットを実効支配している」と主張しています(参考URL:ダライラマ法王日本代表部ウェブサイト)。

従って、論理的には元寇も「中国による日本侵略」という事件になりますが、中国の教科書では元寇には触れられていません。

倭寇(室町時代)

茶室

中国の歴史教科書には室町時代に関する記述はなく、次は江戸時代へ飛びます。

しかし中国史を解説している上巻の、明の時代に日本が登場します。

从元朝末年起,日本海盗不时在我国东部沿海騒扰,被称为“倭寇”。明朝前期,朝廷出于对日本实行经济封锁的目的,严厉禁止海外贸易。东海沿海地区的一些海盗,好商等与倭寇勾结,进行走私活动,出没沿海,烧杀抢掠,造成巨大破坏。上巻 P79

日本語訳

元朝末期以降、「倭寇」と呼ばれる日本の海賊が、折に触れて中国東岸を掻き乱した。 明代初期、宮廷は日本への経済封鎖を目的に海外貿易を禁止した。 東シナ海沿岸の海賊や商人の中には、倭寇と結託して密貿易を行い、沿岸に出没して焼き討ちや略奪などの大きな被害を与えた者もいた。

実際には、明の時代の日本人全員が海賊をしていたわけではなく、室町幕府や大内氏は明から正式に貿易を許可され、日明貿易を行っていました。

また倭寇は14世紀の前期倭寇と16世紀の後期倭寇に分かれますが、このうち後期倭寇は中国人が中心だったとも言われています。

細かい経緯が色々とありますが、そういう事情は全て無視され、「日本人が海賊をしていて、明は日本の経済封鎖を目的に海外貿易を禁止した」とだけ書かれています。

明廷派遣大将戚继光等人平倭。在抗倭斗争中,戚继光率领戚家军,在浙江台州九战九捷;在福建、广州与抗倭将领俞大猷合作,连续重创倭寇,东南沿海形势稳定下来,朝廷遂放松了对私人海外贸易的限制。民族英雄戚继光的抗倭事迹被后世所传颂。上巻 P79

日本語訳

明の朝廷は、倭寇を平定するために名将・戚継光らを派遣した。倭寇との戦いにおいて、戚家軍を率いていた戚継光は、浙江省台州での9つの戦いに勝利し、福建省や広州では対倭寇の将軍・俞大猷と協力して、次々と倭寇を撃破した。東シナ海や南シナ海の沿岸の情勢は安定し、朝廷は民間の海外貿易に対する規制を遂に緩和した。民族的英雄である戚継光の倭寇に対する功績は、後世まで称えられることになった。

このように、日本人の海賊を取り締まった中国人の英雄について詳しく書かれています。

日本では「倭寇は日本人だけではない(むしろ中国人がメイン)」というのは割と常識だと思いますが、中国の教科書では全く触れられていませんでした。

これも日本人に対して暴力的なイメージを与える記述の1つではないでしょうか。

秀吉の朝鮮出兵(安土桃山時代)

安土城

続いて、朝鮮半島の歴史に関する箇所で日本が登場します。

中国の歴史教科書で近代以前の朝鮮半島に関する記述は日本に関する記述よりも遥に短く、一段落だけなので、全文ご紹介します。

7世纪末,新罗初步统一了朝鲜半岛,模仿中国建立了中央集权国家。10世纪初,新罗人王建建立高丽王朝仿效中国唐朝制度,在中央设三省六部,将地方划分为十道,推行土地国有,引人科举考试选拔官员,中国的儒家经典和辞章之学广为传播。14世纪末,高丽大将李成桂自立为王,迁都汉城,改国号为朝鲜。下巻 P26

日本語訳

7世紀末、新羅は一応朝鮮半島を統一し、中国を模倣した中央集権国家を築いた。10世紀初頭、新羅の王建は、中国の唐の制度を模倣した。中央政府に3道6省を設置し、地方を10道に分け、土地の国有化を推進し、官吏選抜に科挙を導入し、中国の儒学古典や修辞学を広く普及した高麗を建国した。

古朝鮮や三国時代に関する記述はなく、「新羅や高麗は中国の制度をコピー&ペーストして作った国だった」とだけ紹介されています。

中国の韓国・朝鮮に対する意識が垣間見える記述です。

そして、ここから日本の登場です。

14世纪末,高丽大将李成桂自立为王,迁都汉城,改国号为朝鲜。16世纪末,日本丰臣秀吉派20万大军侵略朝鲜。朝鲜请求中国支援,明朝派军队赴朝鲜作战。明朝大将邓子龙,朝鲜大将李舜臣在战斗中壮烈牺牲。经过7年的艰苦战斗,中朝军民取得抗击日本侵略的胜利。下巻 P26

日本語訳

14世紀末、高麗の将軍・李成桂が自らを王とし、首都を漢城(ソウル)に移して国名を朝鮮と改めた。16世紀末、日本の豊臣秀吉が20万の大軍で朝鮮を侵略した。朝鮮は中国に支援を求め、明は朝鮮に軍隊を派遣して戦った。明の将軍・鄧子龍と朝鮮の将軍・李舜臣は、戦闘中に壮絶な死を遂げた。7年間の激闘の末、中国と朝鮮の軍隊と民衆は、日本の侵略に勝利を収めた。

このあと中国の歴史教科書に朝鮮が登場するのは明治時代の日清戦争です。

もし私が中国人の高校生で、この教科書を読んだら「国内で軍事独裁政権をやっているだけならまだしも、倭寇や朝鮮出兵などの形で外国にも迷惑をかけるとは、日本は実にけしからん!」という印象を持つでしょうね。

日本に関する記述は、続いて江戸時代です。

江戸時代

名古屋城

17世纪建立的德川幕府面对世界变局,意图以锁国加强统治,抵御外来影响。下巻 P26

日本語訳

17世紀に設立された徳川幕府は世界情勢の変化に直面し、鎖国をすることで統治を強化し、外国の影響を防ぐことを意図した。

江戸時代に関する記述はこれだけです。この教科書には他には何も書かれていません。

しかし、10年くらいに中国の本屋で立ち読みした高校の歴史参考書には、徳川幕府のことを「軍事独裁政権」と明記していた記憶があります。

欄外に日本の歴史学者の文章を引用した補足があります。

坂本太郎在《日本史》一书中如此评价锁国政策:

有关锁国的利弊,历来议论纷纭;但它确实是加强和巩固幕府封建统治的有效政策,长达二百余年的江户时代,能在国内保持和平,幕府政权得以维持,锁国无疑是个有力因素。在经济方面,国内产业得到发展,在文化方面,日本独特文化得以昌盛等等,可以说都是由于锁国的影响。但是另一方面,它缩小了人民刚刚开展的,面向世界的目光,扼杀了不断探索的精神......

下巻 P26

日本語訳

坂本太郎は『日本史』の中で、鎖国政策について以下のように評価している。

鎖国のメリット、デメリットはこれまで色々と議論されてきたが、確かに幕府の封建支配を強化・定着させる有効な政策であり、200年以上続いた江戸時代に、国内の平和を維持し、幕府の政権を維持する強力な要因であったことは確かである。経済面では国内産業の発展、文化面では日本独自の文化の隆盛、これらはすべて鎖国の効果によるものであったことは間違いない。 しかし、その一方で鎖国は、人々が当時発展しつつあった世界への視線を縮小し、飽くなき探究心を阻害した ......。

坂本太郎は、1901年生まれで1987年に亡くなった歴史学者です。鎖国の評価については、哲学者の和辻哲郎なども似たような評価をしていたそうです。

大化の改新の記述もそうでしたが、中国の歴史教科書に登場する日本史は全体的に1960年代くらいの歴史学の印象です。

最近は鎖国に対する評価も変わり、「鎖国」という言葉自体を教科書から削除するべきという意見も出ているようです。

実際の江戸時代には蘭学も興隆していましたし、杉田玄白や伊能忠敬など、飽くなき探求心を発揮した日本人は大勢います。

日本の歴史教科書には、杉田玄白が人体を解剖してみたら、中国の医学書は間違いだらけで、オランダの医学書の方が正確だったので、日本人が「欧米スゲー!!」と感動したことが書かれていた記憶があります。

中国人は昔から一貫して「中国の方が欧米より優れている」と考えているのに対して、日本人は江戸時代ごろから「中国よりも欧米の方が凄いのでは?」という感覚を持っていたのではないか感じます。

1842年にアヘン戦争で中国(清)がイギリスに負けたことに日本人は驚愕し、明治に入って更に欧米への傾倒を強めていき、日清戦争で完全に「実は中国は大したことなかった」という評価が固まってしまいました。

政治体制や領土問題に関する認識の違いよりもずっと根深い価値観の相違だと思います。

明治維新

山口県庁

1842年にアヘン戦争で清がイギリスに負けた時、中国よりも日本の方が焦ったそうです。

中国は歴史的に北方の騎馬民族から攻められたことが何度もありましたが、「中国は軍事力では野蛮人に劣るけど、経済力や文化では中国の方が圧倒的に上だから、そのうち野蛮人も偉大な中華文明に魅了されて中国化されるだろう」と考えていました。

アヘン戦争後の中国のイギリスへの対応もこの延長にあり、「寛容な文明国である中国が、野蛮人であるイギリスに譲歩してやっている」くらいの意識でのんびりと構えていたようです。

しかし、欧米と同じく中国から格下として認定され、軍人が支配していた日本人の方がイギリスの軍事力に驚愕し、徳川幕府も各藩も欧米への警戒を強めたようです。

例えば、それまでの幕府は「異国船打払令」に基づいて外国の船を打ち払っていましたが、アヘン戦争でのイギリスの強さに驚いた幕府は方針転換し、「薪水給与令」を出して遭難した外国船へのサポートを許可しました。

その後、ペリー来航を経て明治維新になりましたが、中国の歴史教科書では明治維新によって日本の中国侵略の基礎が作られたことが説明されています。

19世纪中期,日本面临沦为半殖民地的民族危机。日本有识之士于1868年推翻幕府统治,进行改革,史称“明治维新”。明治政府加强中央集权,废除封建等级制度,推行“富国强兵”“殖产兴业”“文明开花”三大政策,仿效西方国家制定宪法。宪法肯定了天皇神圣不可侵犯和统揽一切的地位,议会,内阁,军部相互牵制,成为天皇权力的代行机构。明治维新保留了大量封建势力,官僚寡头和军阀实际掌握了权力,成为军国主义的社会基础。日本很快开始对外侵略扩张。下巻 P56

日本語訳

19世紀半ば、日本は半植民地になりかねない民族危機に直面していた。 1868年、日本の有識の士が幕府を倒し、明治維新と呼ばれる改革を行った。 明治政府は中央集権を強化し、封建的な階級制度を廃止し、「富国強兵」「殖産興業」「文明開化」の三大政策を推進し、欧米諸国を手本とした憲法を策定した。憲法は天皇の神聖不可侵性と統治権の総攬者としての地位を明確にし、議会、内閣、軍部は天皇の権力を代行する機関として相互に牽制する(旨を定めた)。 明治維新では封建的な権力が大幅に維持され、官僚寡頭勢力と軍閥が事実上権力を握り、軍国主義の社会的基盤となった。 日本は早々に外国の侵略と拡張を開始した。

「明治維新では封建的な権力が大幅に維持され」と書かれていますが、ここはマルクス主義の唯物史観では

原始共産制→古代奴隷制→中世封建制→近代資本主義→社会主義革命を経て共産主義へ

と社会が進化すると考えられていることを思い出してください。

教科書では、明治維新の記述の直前にフランス革命やアメリカ独立革命の歴史が紹介されており、「市民革命は封建制度に大打撃を与え、資本主義制度の確立のための条件を整えた」と書かれています。

身分制を打倒して市民が平等な権利を享受できるようになるのが資本主義社会です。

つまり、欧米と比較すると封建勢力(薩長の藩閥勢力を指していると思われます)が明治新政府にも残ったので、日本はまだ資本主義のレベルにすら達していないという意味です。

封建的な軍事独裁政権が700年も続いてしまうような、大昔から戦争と侵略が大好きな戦闘的な封建国家の日本が、いよいよ欧米の強い武器を手に入れて、ついに外国を侵略し放題になってしまったという印象を受ける記述です。

この記述に続けて、マルクス主義的歴史観から資本主義を批判する記述が続きます。

与封建制度比较,资本主义制度是巨大的历史进步,在资本主义制度下,生产力得到快速发展。但是,资本主义制度仍然是一种剥削制度。资本主义列强大肆推行殖民扩张政策,把亚非拉广大地区变成殖民地或半殖民地,进行压榨和掠夺。下巻 P56

日本語訳

封建制度に比べ、資本主義制度は、大きな歴史の進歩であった。資本主義の下で、生産力は急速に発展した。しかし、資本主義体制は依然として一種の搾取制度である。 資本主義列強は思いのままに植民地の拡張政策を推進し、アジア、アフリカ、ラテンアメリカの広大な地域を植民地か半植民地にして、抑圧と略奪を行った。

封建主義に比べれば資本主義はだいぶマシになったものの、資本主義社会でも引き続き搾取が残るから社会主義には劣るという記述です。

中国の教科書によれば、資本主義は労働者や植民地への抑圧と略奪で成り立っている搾取システムです。

このように「資本主義は搾取で成り立っている」という価値観が背景にあるので、今でも欧米や日本などの資本主義国が中国の各種問題を批判すると

  • 西側の資本主義諸国は西側の価値観(人権)を口実に中国の内政へ干渉し、再び中国を弱体化させて搾取しようとしている
  • 中国共産党が指導する特色ある社会主義によって、中国は資本主義国の横暴から世界を守らなければならない

という反論が展開されます。

明治維新までの日本史まとめ

枯山水

ここまでで明治維新までの歴史は終わりです。中国の歴史教科書に書かれていた文章は漏れなく全て引用しました。

中国の歴史教科書に書かれた近代以前の日本史まとめ

中国の歴史教科書に登場する明治維新までの日本史をまとめます。

  • 弥生時代に中国人が稲作や冶金を伝えたお陰で日本は発展した
  • 7世紀に日本は乱れたが、中国の制度を模倣して中央集権体制を確立した
  • 10世紀には模範的な中国の制度を維持できなくなり、武士という軍人が台頭した
  • 12世紀には幕府という軍事独裁政権が現れ、武力によって支配した
  • 14~16世紀には、倭寇という日本人が明を苦しめた
  • 豊臣秀吉が朝鮮を侵略し、中国が朝鮮を助けた
  • 江戸時代の日本は鎖国し、日本は閉鎖的な封建社会で、世界の発展から取り残された
  • 明治維新まで残っていた封建制力が軍事力を強め、対外侵略の基盤が固まった

この記事では、私が私の解釈を正当化するために恣意的に中国の教科書を引用しているのではなく、近代以前の日本に関係する記述を全て漏れなく引用しました。

これらの事実を要約すると、「日本は中国がリードしてあげない限り独自に文明を発展させることができず、放っておくと秩序が乱れて内乱と侵略を繰り返すか、軍事独裁政権の封建支配によって閉鎖的で停滞した社会になる国」という印象を受けます。

中国の歴史教科書から私が受けた印象
  • 中国:世界文明の中心であり、朝鮮や日本へ進んだ制度や文明を伝えた一流国家
  • 朝鮮:中国の制度を忠実にコピーできた二流国家
  • 日本:中国のコピーに失敗した結果、軍人が台頭し軍事独裁政権の強権政治が続いた危険な三流国家

朝鮮も似たような認識を持っており、二流国家を自負する朝鮮が三流国家の日本による内政干渉から逃れようとして清やロシアへ近づいたことが、日清戦争や日露戦争へと繋がります。

近代化を果たした日本が中国へ侵攻する

ここから、明治維新までの史実を前提に、ここから日清戦争→義和団事件→対華二十一箇条の要求→日中戦争と進みます。

この先の歴史については次回の記事でご紹介します。

次回の記事:中国の高校歴史教科書に登場する日本史2 ~戦前編~

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