皆さんは、何か苦手なことはありますか?
そして、その苦手なことが原因で自己嫌悪に陥ったり、無気力になってしまったり、といったことはありませんか?
自己肯定感が低いと、勉強が苦手、給料が低い、運動ができない、異性にモテない、結婚できないから自分には価値がないと思ってしまっていがちです。
ところが実際には、勉強が苦手でも、給料が低くても、運動ができなくても、異性にモテなくても、結婚ができなくても楽しく生活している人は大勢います。
この違いは何でしょうか?
私は幼い頃から勉強はかなり得意なものの運動は非常に苦手で、20代になるまで全く女性と関わる機会もなかったため、劣等感コンプレックスが強かったです。
しかしあるとき、人より劣っていることは何も問題ではないということに気がつき、今では以前に比べると日々穏やかに暮らせています。
苦手なことがあることは、実は全く問題ではありません。
この記事を読めば、苦手なことを克服しなくても自分に自信を持てるようになります。
Contents
自己肯定感が低い人は人間に優劣をつける
自己肯定感が低い人は「人間には優れた人と劣った人がいて、劣った人には存在価値がない」と考えています。
「自分は人より給料が高いから存在価値が高い」などと考えている人も、一見すると自信家に見えますが、実は自己肯定感が低いです。
なぜなら「もし給料が下がったら、自分には存在価値がない」と思ってしまうからです。
そういう人は、存在価値がなくならないように常に優れていなければならない、という強迫観念に囚われてしまいます。
「自分は人より優れている」と考えることを「優越感コンプレックス」
「自分は人より劣っている」と考えることを「劣等感コンプレックス」
と言います。図にすると以下のイメージです。
自己肯定感が高い | 自己肯定感が低い | |
優越感コンプレックス | 劣等感コンプレックス |
自己肯定感が高い人は、優越感コンプレックスも劣等感コンプレックスも持ちません。
自己肯定感が高い人の考え方は、金子みすずの詩で有名な「みんな違ってみんないい」です。
周囲からの評価が自分の価値を決める
自己肯定感の低い人を呪縛する考え方があります。
それは働かざる者食うべからずです。
人は1人では生きていけないので、支え合わなければならない。
従って、支え合いに参加できない役立たずは生きる価値がない。
という考え方です。
この「働かざる者食うべからず」のことわざは、自己肯定感の低い人を以下のように呪縛します。
そして「頑張って働いて成果を出さなければ」と焦り、無理して働いた結果、疲労とストレスばかりが溜まり、何の成果も出ずに更に自己嫌悪が酷くなる・・・という無限ループを繰り返します。
これが劣等感コンプレックスです。
逆に優越感コンプレックスを持っている人は、仕事で成果を出して周りから評価されればされるほど「自分は成果を出しているから存在価値がある」という確信を深めることになります。
仕事で成果を出せなくなった瞬間に自分の存在価値が失われるので「常に頑張って働き続けなければならない」という強迫観念に襲われます。
そして強迫観念の下、どんな状況でも頑張って働き続けた結果、更に周りからの評価が上がり、「自分は成果を出せなくなった瞬間に存在価値を失う」という確信を深める・・・という無限ループを繰り返します。
このように「働かざる者食うべからず」という言葉は、自己肯定感の低い人をコンプレックスの無限ループに追い込んでいるように感じます。
この「働かざるもの食うべかざる」は、「人を喜ばせられない、人の役に立たない人は存在価値がない」と言い換えられます。
これをより抽象的に表現すると、周りからの評価が高い人は価値が高いということになります。
勉強や仕事、運動など何かしらの分野で評価を得ている人は優れていて、評価を得られない人は劣っている・・・という考え方に繋がります。
なぜ自己嫌悪を抱くようになったのか
Wikipediaによれば、「働かざる者」とは「働けない人」ではなく、「働こうとしない人」のことを指しています。
ここで書かれている「働こうとしない者」とは、「働けるのに働こうとしない者」であり、病気や障害、あるいは非自発的失業により「働きたくても働けない人」のことではないとされている。
もともと「働きたくても働けない人」の存在価値は否定されていません。
そこで、自己嫌悪の無限ループを繰り返している人に対し、以下のような言葉をかける人がいるかも知れません。
このように、自己肯定感の低い人は全てをネガティブに捉えてしまい、「他人から評価されない限り自分には価値がない」という考えを簡単には改められません。
なぜここまで強固な思い込みがあるのかというと、育った家庭環境で「親を喜ばせなければ、親は自分のことを大切にしてくれない」と感じたからではないでしょうか。
出典を明記できない(記憶していない)のですが、確か心理学者の加藤諦三が以下のようなことを書いていました。
最も幸せな子どもは、親のご飯がマズかった時、親へ向かって「マズい」と言える子どもである。
その子どもは、親に自分の本音を話しても、親からの愛情は変わらないと確信しているのである。
毒親育ちの子どもは「自分が親を幸せにしなければならない」と感じていて、親の期待に反することをすることは許されないと感じています。
従って、親のご飯がマズくても「美味しい」と言わなければならないと思っています。
親も、子どもに対して期待をかけ、自分の期待に応えるよう子どもに要求します。
本来、子どもを幸せにするのが親の役割のはずであるのに、親子の役割が逆転しています。
このように、親子の役割が逆転した家族のことを機能不全家族と呼びます。
「優れなければ承認されない」と思ってしまうと、承認欲求を満たすためには無限の努力しなければなりません。
しかし実際には、努力などしなくても承認欲求は満たされます。
これから、努力をしなくても自分を承認できるようになるための考え方を説明します。
コンプレックスの無限ループから抜け出すには
繰り返しになりますが、自己肯定感が低い人は「周囲からの評価が高い人は優れていて、低い人は劣っている」という価値観を持っています。
周囲からの期待に応えられれば「自分は周囲の評価を得ているから価値がある」と優越感コンプレックスを抱き、期待に応えられなければ「自分は周囲の評価を得ていないから価値がない」と劣等感コンプレックスを抱きます。
ここから分かることは、劣等感コンプレックスのある人が劣等感をバネに努力して人より優れた結果を出せるようになっても、劣等感コンプレックスが優越感コンプレックスへ変わるだけで、根本的な問題は何も解決されないということです。
成績の悪い子が勉強を頑張って学年で1番の成績を取っても、「勉強ができなければ自分には価値がない」と思っている限り自己肯定感は上がりません。
モテない人がオシャレやコミュニケーションを頑張ってモテるようになっても、「モテなければ自分には価値がない」と思っている限り自己肯定感は上がりません。
ではどうすれば良いかというと、「評価が高い人は存在価値が高い」という考え方を壊すしかありません。
自己肯定感が強い人は、「世の中には優れた人と劣った人がいる」という前提から出発していません。
「人間には個性の違いがあるだけで、優劣はない」というのが自己肯定感の強い人の考え方です。
「人間には優劣がある」という考え方の刷り込みは超強烈で、これをひっくり返すのは生半可なことではありません。
育ってきた環境で何十年もかけて身につけてきた価値観なので、簡単に切り替えれないのは当然のことです。
しかし、何年もの時間がかかるかも知れませんが、この価値観を変えて自己肯定感を高めることができた人がいることも事実です。
ここからは、この価値観を変えるために、人間に優劣がない理由をご説明します。
人間に優劣がない3つの理由
勉強が得意な人・苦手な人、運動が得意な人・苦手な人など、様々な分野で得意な人と苦手などがいますが、人間としての存在価値は変わりません。
ということだと思うので、少しでも納得して頂けるように考えたいと思います。
どこで何の特性が役に立つか分からない
誰でも得意、不得意はあります。
勉強も運動もダメ、ということであっても、何かしら得意なことはあるものです。
まだ得意なことが発見できていないだけです。
今の環境では得意なことを発揮できなくても、環境を変えれば得意なことを発揮できる場合もあります。
誰しも得意なことと不得意なことがあります。そして、どこで何のスキルが役に立つかは分かりません。
例えば「何も考えずにボーっとしていられる」などというスキルは何の役にも立たなそうですが、インドへ来ると意外と役に立ちます。
私の住んでいるインドでは、想定外の出来事により1時間、2時間くらい待たされることもよくあります。
しかも停電が発生して携帯電話の電波も圏外、節電のため携帯で音楽を聴くわけにもいかない、日本から持ってきた本も読み終わってしまった・・・などといったこともあります。
こういったときに、「1分1秒を惜しんで働くことが素晴らしい」という考え方の人は大ダメージを受けます。
インドでは日本のように「何でもきちんとしなければならない」などと考えていると暮らしていくことができません。
「まぁ1日くらい何もしなくても死にはしない」くらいの構えでドーンと構えている方がいいです。
従って、「何もしないでボーっとしてもストレスにならない」という人の方がその人の得意分野となるので、得意分野を活かせるインドへ移住してくれば良いわけです。
という人の方が多いと思うので極端な例かも知れませんが、いずれにせよ今の環境で「得意なことは何もない」と考えていても、環境を変えることで思わぬ「得意なこと」が見つかる可能性があります。
確かに、医師や弁護士などの仕事は尊い仕事として尊敬を受けます。
しかし、医師や弁護士の仕事が清掃の仕事よりも存在価値が高いとは言えません。
世の中の全員が医師か弁護士になってしまったら社会は成り立ちませんし、清掃員の仕事だって社会から必要とされている仕事であることには変わりません。
医師には医師の適性がある人が、トイレ掃除にはトイレ掃除の適性がある人がいて、どちらが優れているということはないです。
ただ需要と供給のバランスによって給料の高低が決まっているだけであって、給料の高い人が存在価値が高いわけではないです。
「水とダイヤモンドのパラドックス」という経済学の理論があります。
水は人間が生きていくために必要ですが、ダイヤモンドがなくても人間は生きていけます。
しかし、ダイヤモンドの方が希少価値があるため(供給量が少ないため)水よりもダイヤモンドの方が値段が高いのです。
ただ「値段が高い」というだけであって、水よりもダイヤモンドの方が存在価値が高いというわけではありません。
水には水の、ダイヤモンドにはダイヤモンドの良さがあります。
水は生きていくために必要ですが、かと言って毎日水ばっかり飲んでいる人生は退屈で、ダイヤモンドを身につけることで幸せを感じる人もいます。
従って、ダイヤモンドはダイヤモンドで大切で、「水の方がダイヤモンドよりも存在価値が高い」とも断言できません。
ある人が「優れている」「劣っている」ということはなく、自分に合った環境で得意なことを見つければ良いだけです。
世の中には人の役に立つのが好きな人がいる
世の中には、義務感ではなく、人の役に立つことが本当に好きな人がいます。
アニメマニアやゲームマニアと同じで「人の役に立つことが楽しい趣味」という人です。
本当に好きで人の役に立っている人は、本人も楽しいので「これだけやってあげたんだから!」などと恩着せがましいことは言いません。
助けてもらったときには「助けてもらったのにお返しができなくて申し訳ない」などと思わず、ただ心の底から「ありがとうございます」と感謝すればOKです。
そうすると相手は喜びます。
逆説的ですが、「助けてもらう」ということが人の役に立っていることもあります。
助けてもらった方は助かりますが、助けた方にしても「人の役に立てて嬉しい」という感覚が持てるので、双方とも相手の役に立っていると言えます。
どちらが優れている、劣っている、という訳ではありません。
従って、「何の役にも立てない自分は存在価値がない」などと罪悪感を抱く必要はありません。
そもそも人間に「存在意義」など存在しない
人間は別に仕事をするために存在するわけでもなければ、何かの役に立つために生きているわけではありません。
仕事ができようとできまいと、人の役に立とうと立てまいと、最後には亡くなります。
ある看護師が末期患者と接する中で、彼らが口にした言葉をまとめた「死ぬ瞬間の5つの後悔」という本があります。
その中で取り上げられている5つの後悔とは、以下のようなものです。
- 自分に正直な人生を生きればよかった
- 働きすぎなければよかった
- 思い切って自分の気持ちを伝えればよかった
- 友人と連絡を取り続ければよかった
- 幸せをあきらめなければよかった
ここには「もっと努力して苦手なことを克服すれば良かった」「もっと優れた人間を目指せば良かった」といったことは一切書かれていません。
結局、誰かの役に立ったとしても、その人もいつかは亡くなるわけですし、最終的には人類も地球もなくなります。
地球滅亡の前に人類が地球を脱出できたとしても、どこかで人類は滅亡するはずです。
このさき宇宙全体が無限に拡大するのか、それともどこかで縮小するのかは知りません。
しかし、何れにしても将来の宇宙は生物が生きられる環境ではなくなるそうです。
何かを成し遂げたとしても、人の役に立っても、歴史に名前を残したとしても、最後には全て無になります。
従って、人の役に立つことに何の意味があるのか?と考えても、特に意味がないように思いますし、虚しくなるだけではないでしょうか。
「自分の人生に価値があるのか?」と考えてしまうのは、根本的に人生がつまらないからです。
例えば、サッカーが好きで勉強が嫌いな子どもは「どうして勉強をしないといけないの?」とは疑問に思っても、「どうしてサッカーをしないといけないの?」という疑問は持ちません。
人間は、好きなこと、楽しいことについては特に疑問を抱かないものです。
サッカーが楽しければ、サッカーをやることに何の意味がなくても気にせずに楽しむことができます。
それと同じで、人生を楽しんでいる人は「何のために生きるのか?」なんて考えません。
人生そのものを楽しめていないと「自分の存在意義は何か?」などということを考えてしまいます。
問題の本質は自分の存在意義が分からないことではなく、人生を楽しめていないことではないでしょうか。
人間には存在意義がないので、人の役に立っている人が優れているわけでもなければ、人の役に立っていない人が劣っているわけでもありません。
人生の存在意義を考えても結論は出ないので、どうすれば人生を楽しめるかを考えましょう。
人生を楽しまないまま自分の存在意義ばかりを考えていると、死ぬときに後悔することになります。
人生を楽しめると、たとえ人の役に立たなくても、存在意義などなくても「生まれてきて良かった」という実感を得られるのではないでしょうか。
とはいえ
まとめ
「人には優れている人と劣っている人がいる」と考えてしまう原因は、「劣った人には存在価値がない」ということにあります。
しかし「劣った人には存在価値がない」という考え方には根拠がありません。
世界には優れが人も劣った人もいないので「みんな違ってみんないい」のです。
ということは、ある人の感覚が他の人より優れているとか、間違っているということもありません。
ある出来事に接して、「楽しい」と思う人もいれば「疲れる」と思う人もいますが、どちらかの感性が「正しい」ということはありません。
従って、誰でも自分の感覚を信じて良いのです。
自己肯定感が下がってしまう原因は、自分の感覚を信じられず、「自分の感覚は間違っているのではないか?」と考えてしまうことにあります。