2020-21年にインドで経験したロックダウンと感染爆発の振り返り2

2020年から2021年にかけてインドで経験したロックダウンと感染爆発について振り返ります。

今回は、2020年にインドでロックダウンが始まってからの経緯です。

前回はこちら→2020-21年にインドで経験したロックダウンと感染爆発の振り返り1

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インドでのロックダウン

チェンナイ スーパー

3月25日 ロックダウン開始

3月24日の夜8時からモディ首相が演説を行い、25日の深夜0時から(つまり発表の4時間後)インド全土で21日間のロックダウンを行うと発表されました。

このロックダウンは凄まじい内容でした。

  • 地区を超える移動は禁止
  • 電車・バス・タクシー・飛行機などの公共交通機関は全て運航禁止
  • 病院やスーパーなどの必要不可欠な店(エッセンシャルサービス)を除き全て営業禁止
  • 食料品の買い出しを除き基本的に外出禁止

デリバリーも停止されました。電車や飛行機が突然停止されたので、出張者は家へ戻ることができなくなり、ホテル暮らしを余儀なくされました。

ロックダウンが発表された直後、とりあえず水さえあれば生き延びられるだろうと考えて水を買い占めました。

実際、この直後は水も買えなくなったので、買っておいて正解でした。

いよいよデリバリーは止まっていて、スーパーマーケットは午前中のみ営業していました。

しかし、大通りを歩いてスーパーへ行こうとしたら途中で警官に

わざわざスーパーまで行かなくても家の近くで果物や野菜を売ってるだろ。

と止められました。確かに家の近くの道端で野菜や果物を荷車に乗せて売っている人はいましたが、スーパーへアクセスできるのか確認したかったのです。

結果、回り道をしたらスーパーに辿り着き、この時はパスタの麺や野菜、インスタント食品、牛乳など、割と何でも豊富に揃っていました。

当時、海外からインドへ入国する飛行機は全て停止されていましたが、インドから海外へ向かう飛行機は一部臨時便が動いていました。

但し日本への便はデリーから羽田への便が動いているのみで、デリー以外の地域に住んでいる日本人は(デリーへの移動手段がないので)帰国することはできませんでした。

ただ、ムンバイ、バンガロール、チェンナイについては臨時便を検討する動きがありました。

出稼ぎ労働者の悲惨な状況が伝えられる

インド国内で出張していた日本人ビジネスパーソンが家へ戻れなくなるのも大変でしたが、まだ雨風を凌げるホテルに泊まれるので良かったかも知れません。

インドの大都市には日雇いの貧しい出稼ぎ労働者が大勢いますが、彼らはロックダウンで仕事と収入を失ってしまいました。

そのまま都市に住んでいても飢え死にしてしまいますが、地元の農村へ帰ればまだ何か食べるものがあるかも知れないので、数百キロにも及ぶ距離を歩いて帰る人が続出しました。

少し後の5月には、15歳の少女が交通事故で歩けなくなったお父さんを後ろに乗せて自転車で1000km以上走って実家へ帰ったという話が日本のマスコミでも大きく報道されていました。

恐らく途中のお店も全て閉まっていたため、飲まず食わずで歩いて途中でバタバタと行き倒れてしまう方が続出したようです。

チェンナイ ロックダウン

3月26日~31日 ロックダウンの日々

もともとチェンナイはデリーやムンバイに比べれば感染者が少なく、危機意識は低かったのですが、21日間のロックダウンも早々に緩んでいきました。

スーパーへ買い物に出かけて警官に追い払われたのはロックダウン初日だけで、翌日には普通に大通りを歩いてスーパーへ辿り着くことができました。

但し道を歩いている人はほぼ誰もいませんでした。

近所のスーパーは、多少食料の補充はされていたものの、段々と品数は減っていき、インスタント食品などもなくなり豆と野菜しか売らなくなっていました。

黒船という日本食材を扱う店があるのですが、そのお店が肉や納豆を売るという情報に狂喜乱舞しました。

こうして振り返ると、ロックダウン中にも関わらず私は毎日外出していたのですが、スーパーだけは常に開いていました。

ここで私にとって大問題だったのが、私の自炊能力が低いということでした。

情けないことに、妻と離れている間はずっと外食やデリバリーに頼っていたので、それらが止まると食べ物に困窮し、毎食コーンフレークに豆乳をかけて食べるような生活をしていました。

このときに自炊能力の重要性を認識しました。

3月31日 期末決算が締まらない

インドは全ての会社の決算を3月31日に締めなければならないと法律で決まっています(特別に許可を得れば一部例外あり)。

しかし、3月25日から急にロックダウンが始まってしまったので期末の棚卸もできず、決算が締まらなくなってしまいました。

誰も工場にも会社にも行けず仕事ができないため、期末だというのに何もできません。

もちろんインド政府は税金の申告期限などを大幅に延長しましたが、日本の本社で連結決算を締めている会社は対応に追われました。

どうしようもないので監査人に相談するしかありませんが、監査人も困ったと思います。

2022年12月現在、私は中国の広州におりますが、中国は全ての会社が12月に決算を締めなければならないと法律で決まっているので、今まさに中国の感染爆発が原因で3年前のインドと同じ問題に直面しています。

チェンナイ空港

日本への一時帰国

4月1~7日 ロックダウンが緩まる

インドの外出制限の期間は4月15日まででしたが、4月に入ると既に緩み始めていました。

ロックダウンをしているにも関わらずインドの感染者は増え続けており、北インドは緊張感がますます高まっていましたが、南インドのチェンナイは相変わらず意識が緩いままでした。

ロックダウン初日の3月25日には車やバイクは一台も走っておらず、警察官からスーパーへ行くのを止められましたが。

ところが4月に入ると道端の携帯はスマホをいじっているか談笑しており、オートや車が好きなように走っていました。

そして、少し離れた大きいスーパーへも行けるようになっていました。

これの何が凄いって21日間の外出制限のルール自体は何も変わっていないのに、知らない間にルールの用がどんどん緩くなっているのです。

これはインド特有のスタイルです。中国もトップの鶴の一声で頻繁に方針が変わりますが、「何の正式な発表もなく、誰も気づかない間に徐々に運用が変わっていく」ということはないです。

インド政府に対する不信感が募る

インド政府は「食料の供給が滞ることはないから問題ない」と言っていましたが、インド人の"No Problem"ほど信用できないことはありません。

実際、出稼ぎ労働者が何百キロも歩いて帰宅する途中でバタバタと倒れる話が報道されても、インド政府がゼロコロナを緩めることはありませんでした。

まだチェンナイのスーパーには食料があったものの、日に日に棚の商品は減っていました。また、地方では物流が滞り水や食料が手に入らなくなっているという話も聞きました。

チェンナイから成田への臨時便が4月中旬に3便だけ設定されましたが、帰るかどうか迷いました。インドに残った時の問題は

  • この臨時便を逃すと、次いつ飛ぶかわからない(何年も飛ばない可能性がある)
  • 医療崩壊した状況でコロナが感染爆発する可能性がある
  • 物流が滞り、水が食料が手に入らなくなる可能性がある
  • 水や食料不足で暴動が起こる可能性がある
  • 家の中で怪我や病気をしても、ロックダウン中なので助けを呼べない

例えば部屋を換気するために家の窓を開けてスズメバチが入ってきたとしても、ロックダウン中なので助けを呼びに行けないといった問題もありました。

インド政府は「ロックダウンは4月15日まで」と言っていましたが、どんどん感染者数が増えていたので延長は必至でした。

2003年に流行したSARSについて調べてみると、感染者が8000人程度だったのに終息まで8か月近くかかっていたので、コロナウィルスは2~3年かかるだろうと思っていました。

当時はまだ感染に波があることを知らなかったので、「2~3年ずっと厳格なロックダウン下でコーンフレークと豆乳ばかり食べていたら栄養失調になってしまう」と不安になりました。

とはいえ、日本へ戻ってインドがすぐに正常化する可能性もゼロではなかったので、帰るかどうか迷いました。

チェンナイ空港

4月14日 日本への一時帰国

全日空のチェンナイ→成田直行便を予約し、帰国することにしました。

当時もう街中を車やバイクを走ってはいましたが、地区を超えるときには許可証が必要でした。

東京に例えると、千代田区の中は自由に動き回れたものの、千代田区から港区へ移動するには許可証(Road Pass)が必要でした。

その許可証にはドライバーの電話番号を記載する必要があったので、ドライバーを手配して許可証を準備し、当日を迎えました。

ときどき運転手が約束の時間に遅刻することがあったので心配でしたが、当日は6時間も早く来てくれました。

街中はまだまだシーンとしていましたが、Road Passのお陰で無事に空港へ到着できました。

21日間のロックダウンは4月15日に終了する予定でしたが、このとき更に3週間延長されることが決まりました。

夜8時半にチェンナイを出発する予定でしたが、全日空の期待に不具合があり、翌日へ変更となりました。

このとき、全日空がWESTINホテルを手配してくれました。

この時は本当にビックリしました。ロックダウン下で急に数百人もの宿泊予約をできることにも驚きましたし、肉などの食料を調達できることにも驚きました。

恐らくこの時、全日空の担当者は乗客のために東奔西走して何とか宿泊場所を手配してくれたのだと思います。

こういう対応の積み重ねが、顧客からの信頼に繋がっているのだろうなと実感しました。

翌日、無事にチェンナイ空港から出発することができました。

チェンナイ空港で全日空のマークを見るだけでも安心するのですが、この時は空港が閉鎖中で全日空以外の飛行機は飛んでいなかったため、チェンナイの空港で日本語が放送されるという前代未聞の事態になっていました。

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日本での自主隔離

前回、1月30日に上海から東京へ入国した時には全く何の規制もありませんでしたが、この時には日本も入国規制をしていました。

感染拡大国と、そうでない国に分かれており、感染拡大国から入国した場合にはPCR検査や数日間の政府隔離がありました。

一般国民はPCR検査を受けたくても受けられない状況だったのに、どうして帰国者だけ必ずPCR検査を受けることができるのか?と批判を受けていた時期です。

この頃には既にインドも感染が相当拡大していましたが、まだ感染拡大国には指定されていませんでした。

いきなり「今からロックダウン始めます」と言って本当に都市を封鎖してしまうインドや中国に慣れていたので、感染対象国を列挙して紙に印刷する日本のスタイルは逆にカルチャーショックでした。

とても丁寧ではありますが、感染状況が変わった時に柔軟に対応するのが難しいかも知れません。

当時、海外からの帰国者は公共交通機関の利用が禁止で、ハイヤーかレンタカーで帰るか、検閲所のバスを利用して成田付近のホテルに泊まらなければなりませんでした。

私は成田のホテルに2週間泊まりましたが、検閲所のバスは運航頻度がとても少ないのに誰も乗っていません。

成田空港から成田駅付近は10km近くあるのですが、みんなどうやって成田駅付近へ移動しているのか不思議でした。

日本でも4月16日から緊急事態宣言が全国へ拡大され、街は閑散としていましたが、それでも普通に車や電車は動いていたので、インドから帰ってくると全てが平常運転に感じられて別世界でした。

インドの感染拡大はしばらく収まらず、8月~9月頃に落ち着いて生活が正常化しました。

しかし世界全体が緊急事態の状況であったため、多くの一時帰国者の日本滞在期間は長期化し、私は翌年に帰ることになりました。

翌年の2021年にインドで過去最大の感染爆発を経験することになります。続きはこちら→2020-21年にインドで経験したロックダウンと感染爆発の振り返り3

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