日本人が海外へ行くと、様々な差別に遭うことがあります。レストランで注文を取りに来ない、列に並ぶと舌打ちをされる、といった明らかに人種差別となるものもあります。

※始めに言っておきますが、インドで私が「日本人であることを理由に」バカにされたと感じたことは1度もありません。

明らかな差別は糾弾されるべきですが、難しいのが些細なことです。

一見差別に見える態度でも、ただの日本人に対する無知・誤解であることもあります。

私は、無知・誤解といったものまで「差別だ」として糾弾してしまうと、逆に生まなくても良い争いを生んでしまうのではないかと感じています。

しかし一方で、差別に対しては断固として戦っていかなければならない場合もあります。

そこで、差別かどうか微妙なケースについて「差別なのか」「差別ではないのか」をどのように見極めるべきかについて考えてみたいと思います。

些細な「差別」の例

アジア人は結局、米国で差別されているのかという記事で、下記の例が「マイクロアグレッション(些細な攻撃)」として挙げられていました。

―生まれも育ちもアメリカなのに、「すごく英語が上手ですね」とほめられる
―目が細いコンプレックスがあるのに「なんて細い目なんだ!」と感動される
―高級フランス料理店に行ったら、なぜか自分だけテーブルセットが箸だった
―数学や科学が得意と勝手に思われる
―キリスト教徒なのに、仏教徒と思われる
―「犬を食べるって本当か?」と真剣に聞かれる
―白人夫との間に生まれた自分の子供と遊んでいるのに、ベビーシッターと間違えられる

 

私が海外にいる間、「これは人によっては差別と受け取るんじゃないか」と感じた、外国人から受けた日本人に関する誤解を挙げてみます。

外国人から日本人に関して受けた誤解の例
  • ニューヨークで、多くの人から「ニーハオ」と声をかけられ手を合わせられる
  • ドイツ人から「日本と言えば、これが有名でしょ?」と言って万里の長城の写真を見せられる
  • 中国のレストランで箸で食事をしていたら、中国人から「日本人も箸が使えるのか!」と言われる
  • 中国語を勉強して1年くらい経った時、中国人から「1年勉強しただけでこんなにたくさんの漢字を覚えるなんて凄いですね!」と言われる(その人は日本人が漢字を使うことを知らなかった)
  • インド人から「中国料理と日本料理は違うの?」と聞かれる

これらの例について、皆さんはどのように感じますか?

イラッとされた方もいたかも知れません。ここで逆に、日本人の言動で、上記の例と同レベルで「それは違うよ!」と感じたことを列挙してみます。

日本人が外国人に関して誤解していた例
  • インドに行くと言って「インドって暴行事件が多くて治安悪いんでしょ?大丈夫?」と言われる

⇒治安が悪いのは北部を中心とした一部の地域です。

  • 上海の夜景の写真を見せたら「中国も意外と発展してるんですね!」と言われる(2018年のことです)

⇒中国の大都市は東京とほぼ変わらないくらい発展しています。

  • 「インド人ってみんなターバン巻いてるの?」と言われる

⇒ターバンを巻いてるのはシク教徒というごく一部のインド人で、大多数のインド人は巻いていません。

  • インド人を見て「ナマステー」と手を合わせて挨拶する

⇒「ナマステー」というのはヒンディー語の挨拶で、南インドではヒンディー語を嫌がっている人もいるので注意が必要です

  • 日本へ来ているロシア人やスペイン人に観光客へ英語で話しかけて、通じないと驚く

⇒非英語圏の白人はかなり嫌がります。日本国内であれば日本語で話しかけてもらった方が嬉しい方も多いようです。

「知らないこと」は「差別」なのか

「無意識の差別」の例を別の記事から引用します。

中国語を勉強しているイギリス人は日本人も漢字で一緒でしょ、と勉強中の中国語でメッセージ送ってきたり、「この歌手知ってる?」と中国人歌手について聞いてきた。

日本語が中国語や韓国語と全然違う言葉だということは、東アジア・東南アジア以外では殆ど知られていません。

私も、「中国語と日本語は違うのか?」「漢字は同じ文字に見えるけど、言葉は違うのか?」というのはインド人からも頻繁に聞かれます。

アメリカでも、欧米人から中国語の看板を指さして「あれは何て書いてあるの?」と聞かれたことが何回かありました。しかし、これは果たして差別なのでしょうか?例えば

インド豆知識
インドのヒンディー語とパキスタンのウルドゥー語は話せばお互いにある程度通じるが、ウルドゥー語はアラビア文字を使っており、ヒンディー語はテーヴァナーガリーというインド古来の文字を使っている。ヒンディー語はサンスクリット語由来の語彙が多いが、ウルドゥー語はペルシャ語やアラビア語由来の単語が多い

なんてことを知識として知っている日本人がどの程度いるでしょうか。

そこで、たとえば同じクラスにパキスタン人のクラスメイトがいて、アラビア文字でウルドゥー語を書いていたら、「アラビア語を書いているの?」と聞いてしまうかも知れません。

もし、アラビア文字らしきものを書いている人に「それはアラビア語なの?」と聞いたときに「それは些細な差別(マイクロアグレッション)だ」と糾弾されたら、戸惑わないでしょうか。

こちらとしては質問をしただけなので、「いいえ、これはウルドゥー語という別の言語です」と答えてもらえば、「あぁそうなんだ。勉強になります」という感想を述べるまでだと思います。

それは、漢字文化圏以外の国で日本人が漢字を使っていて「それは中国語なの?」と聞かれる状況と変わりありません。

日本人と中国人を一緒に取り扱われたからと言って、それを「些細な攻撃だ」と言ってしまうと、外国人に対して何も質問することができなくなり、コミュニケーションが取れなくなってしまいます。

日本語と中国語が同じ言語だと思われるのは、単なる無知であって悪意はないと思います。

それについて「それくらい知っとけ」と言う人は、世界の全ての言語についてきちんとした知識を持っているのでしょうか?

もし「日本と中国は世界第2位・第3位の経済大国だから、マイナーな言語とは違う」などと言う人がいたら、その発想こそが差別ではないでしょうか。

日本人は欧米のことをよく知っているので、欧米人が日本のことを中国と間違えたりすると「差別だ」と感じるのかもしれません。しかし、日本人がインドや中東や南米やアフリカのことを知っているのかと言えば、殆ど知らないのではないでしょうか。

世界中の森羅万象を全て知るのは不可能ですし、自分が知らないことで興味を持ったことについて質問をするのは罪ではないと思います。なので、その点については「差別だ」と目くじらを立てずに寛容になる気持ちが必要ではないかと思います。

攻撃に見えるコミュニケーション

ここで、冒頭でご紹介したアジア人は結局、米国で差別されているのかという記事で紹介されていた「些細な差別の例」について検討したいと思います。

無知による誤解

  • 「犬を食べるって本当か?」と真剣に聞かれる

これは純粋な興味本位の可能性があります。外国の文化に興味を持って質問をすることは失礼でも何でもないと思いますので、この質問に対しては「いいえ、一般的に日本人は犬を食べません」と答えれば済むだけの話です。

単に質問者が「日本人は犬を食べない」という知識を持っていなかっただけのことなので、この質問だけで「差別を受けている」と感じる必要はないのではないのでしょうか?

例えば、(アヒルに対する非常に残酷な虐待を伴う)フォアグラを普段から食べている欧米人が日本人に対して「鯨の肉を食べる日本人は野蛮だ」などと一方的に自分の価値観を押しつけてきたら、人種差別の意識を持っていると言って良いかも知れません。

しかし、単に日本の習慣について質問されただけで差別だと受け取ってしまうと、何もコミュニケーーションができなくなってしまいます。

なお、日本人が犬を食べないことを知っているのに、わざと面白がって質問しているとしたらそれは攻撃です。

善意による誤解

  • 高級フランス料理店に行ったら、なぜか自分だけテーブルセットが箸だった

これについては、この文脈だけだと差別なのかどうか判断がつきません。

私もインドでローカルのお店へ行くと、みんなが手でカレーを食べている中で私だけでスプーンとフォークが用意されます。

上記の基準でいくと、私も差別を受けたということになりますが、個人的な感触としてはむしろ気を遣ってもらっているという感じがしました。

逆に私もインド人を日本の蕎麦屋へ連れて行ったら「フォークを頼みましょうか?」と気を遣ってしまうと思います。

そのフランス料理店がアジア人に対して差別をしているかどうか?というのは「箸を出されたかどうか」という事実だけでは分かりません。

店員の態度や言葉遣いなど総合的に差別を感じる空気の中で箸を出されたら、それは本当に差別をされているのかも知れません。

しかし、私がインド料理店でスプーンやフォークを出された時には「どこから来たの?日本?おーいいね!インドの食べ物は慣れた?」など、親しみをもって接してくれていたので、差別というよりは気を遣ってくれていたと感じます。

想像力の欠如による誤解

  • 生まれも育ちもアメリカなのに、「すごく英語が上手ですね」とほめられる
  • 数学や科学が得意と勝手に思われる
  • キリスト教徒なのに、仏教徒と思われる
  • 白人夫との間に生まれた自分の子供と遊んでいるのに、ベビーシッターと間違えられる

日本人が犬を食べるかどうか?というのは、外国人にとっては「日本人に質問しなければ分からないこと」です。それに対して、上の4つの事例については外国人であっても想像力がある人であれば分かることです。

例えば、白人は全員英語がペラペラだと思っている日本人がいます。

日本人・韓国人・中国人は見た目が同じでもお互いに通じない言葉を話しているのですから、あれだけ広いヨーロッパなら英語が話せない白人も大勢いるだろうということは、たとえ外国人と接したことがない人であっても想像力のある人なら分かります。

しかし想像力がない人というのは世界中どこの国にもいます。

世界のどこの国に住んでいても「その国の国民全員が同じ宗教を信じている」ということは考えづらいです(法律により強制されている場合は別です)。

また、世界のどこの国に住んでいても、世の中には賢い人もいればそうでない人もいる・・・というのは分かると思います。

例えば日本で同じ教育を受けていても人によって数学の学力は大幅に違いますが、それはどこの国でも同じです。

「インド人は数学が得意」と言われ、トップクラスの人の数学力は本当に凄いのだろうと思いますが、当然のことながら数学が苦手なインド人も大勢います。

「自分が住んでいる国の状況から考えれば、普通は分かるだろう」とツッコミたくなりますが、想像力がない人にはそれが分かりません。

関心の欠如による誤解

  • 生まれも育ちもアメリカなのに、「すごく英語が上手ですね」とほめられる
  • 白人夫との間に生まれた自分の子供と遊んでいるのに、ベビーシッターと間違えられる

想像力がなくても、身近で起きていることに関心を払っていれば分かることというものがあります。

アメリカで暮らしていれば東アジア系のモンゴロイドであっても英語を流暢に話す人がいることには気がつくはずですし、白人夫と結婚する外国人がいることにも気がつくはずです。

しかし、身近にそういう人が全くおらず、テレビなどで見かけても特に関心を払っていなければ、誤解をするということがあるかも知れません。

「『好き』の反対は『嫌い』ではなく『無関心』」などと言いますが、日本人に対して無関心であることは間違いありません。

しかし、無関心であることが差別・攻撃か?というと、それも違和感があります。

世界のあらゆること全てに関心を払うことは不可能なので、関心が持たれないのは仕方ありません。

もちろん、関心の幅が広く深ければその分だけ「教養がある」ということになりますが、教養がないからと言って差別・攻撃をしているわけではないのではないかと感じます。

単なる失礼

  • 目が細いコンプレックスがあるのに「なんて細い目なんだ!」と感動される

「なんて細い目なんだ」と言っている人自身が自分の目にコンプレックスを持っていて、本当に細い目に憧れている可能性もあります。

しかし、それにしても初対面の人の見た目について感想を述べること自体が失礼とは言えるかも知れません。

太っている人が痩せている人に対して「細くて羨ましいです」と言ったとしても、言われた方は細身にコンプレックを持っている可能性もあります。

逆に、細い人が太い人に「私は細いから、人から栄養失調だと思われます。あなたのように、もっと健康的になりたいです」と言った場合、それが本音だったとしても失礼に当たるかも知れません。

このように、初対面の人に対して見た目の感想を述べてトラブルになるというのは同じ人種・国民同士でも起こりうることです。

それがたまたま欧米人とアジア人の間で発生したので人種差別の外観を呈してしまっていますが、本質的には人種差別というよりも個人の問題ではないかと思います。

個人的に、初対面の人に向かって「なんて細い目なんだ!」と言うような人と付き合いたいとは思いませんが、差別・攻撃をしているかどうかは議論の余地があると思います。

どこからが差別・攻撃か

上記に挙げた例は差別・攻撃ではないとして、どこからが攻撃になるのでしょうか。

何でもかんでも「差別ではない」と言ってしまって、本当に差別・攻撃をされたときに怒れなくなってしまったら本末転倒です。

私が「この人は偏見がある」と感じるのは、こちらが「日本では犬を食べない」と説明しても「そんなはずはない」などと、こちらの聞く耳を持たない場合です。

別の例で言うと、「インドの治安は悪くない」ということを説明しても「そんなはずがない。インドは治安が悪いに決まっている」と、自分の思い込みに基づいて人の意見に聞く耳を持たない人については偏見があると感じます。

レストランでアジア系だからと言って意図的に意地悪をされるなどの不利益な取り扱いをされたとき、こちらが主張をしても聞く耳を持たない場合なども差別であると言えます。

傷つく人、気になる人にとっては、小さなことでも差別は差別だ

確かに差別と受け取って傷つく人がいるのは間違いないのですが、だからと言って「日本人が犬を食べるのかどうか、日本人に質問してはいけない」ということになってしまえば外国人に文化的な質問をすることが一切できなくなってしまいます。

本来差別ではないものまで「差別だ」と受け取ってしまうことによって、必要以上に不幸になってしまうのではないかということについて、検討の余地があると思います。

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