
自信のない人が自己肯定感を高めるための7つのステップのうち2つ目は「自分の感覚を信じる」ということです。
前回の記事劣等感コンプレックスの解消は努力による克服ではなく価値観の転換では、自己肯定感を高める第一歩として「人間に優劣はなく、違いがあるだけ」という考え方へ転換することが大切だとご説明しました。
「人間に優劣がない」という前提に立つと、ある人の感覚が他の人よりも優れているというわけではない、ということが分かります。
ところが自己肯定感の低い人は
と言って自分を責めてしまいます。
この「自分の感覚が間違っているのではないか?」という思考が自己肯定感の低下を招いています。
「人それぞれ感覚は違うんですよ」と言われても、なかなか納得できないと思います。
私自身、なかなか自分の感覚を信じることができずに苦労しましたが、今では前よりも自分の感覚を尊重することができるようになり、生活が楽しくなってきました。
そこでこの記事では、自分の感覚を信じることの重要性と、信じられるようになるための方法についてご説明します。
Contents
自分の感覚を信じられないとどうなるか
「自分の感覚を信じられる」ということは極めて重要です。
- 美味しいか、不味いか
- 楽か、大変か
- 楽しいか、つまらないか
- 面白いか、興味がないか
- 腹が立つか、気にならないか
こういったことは人それぞれの感覚の違いであって、どちらが正しいとか優れているとかいった問題ではありません。
例えば、あなたが「今日は疲れたから家で休みたい」と感じているのに、同僚から
と言われた場合を考えて見ましょう。
興味があれば行ったら良いと思いますが、興味なければ行く必要はありません。
同僚にとって尊敬できる人でも、あなたにとって尊敬できるとは限りません。
たとえそのお客さんが年収1億を稼いでいる一流企業役員だったとしても、あなたが「最低限の収入をネットで稼ぎつつ、田舎で生活コストを下げながら家族と一緒にのんびり暮らしたい」と思っているのであれば、何の参考にもならないかも知れません。
みんなが興味のあることでも、あなた興味がないなら「自分は周りの人達とは興味の方向性が違うなー」というだけのことで、あなたの感覚が間違っているわけではありません。
ところが自分の感覚を信じられないと「疲れていても、行かなければならない」と考え、行く必要のない飲み会に時間とお金と体力を消耗します。
例えばセクハラやパワハラなどに遭って苛立ちを覚えても、周りから「その程度のこと、気にすることじゃないよ」と言われると、「そうなのかなぁ。」と我慢して、問題を告発することができなくなります。
自分の感覚を信じられないことで、自分が被害を受けるだけではなく、周りに被害を与えてしまう場合もあります。
例えば、自分が勤めている会社で行われている粉飾決算などの不正に気づき「おかしい」と声を上げようと思っても、周りから「どこの会社でもやっているんだ。悪いことではない」と言われると、自分の感覚を信じられない人は知らない間に不正行為の加害者になってしまうかも知れません。
ユダヤ人の大虐殺を引き起こしたナチス・ドイツの主任死刑執行人アイヒマンも、裁判で「私は命令に従っただけだ」と述べたそうです。
このように自分の感覚が信じられないと、様々な問題を引き起こします。
自分の感覚を信じても犯罪者にならない理由
ここで1つの疑問が生じるかも知れません。
秋葉原や川崎の無差別殺人犯の感覚が一般の人と比べて間違っているということではない、という意味なの?
誰もが自分の感覚を信じて自由に行動したら、秩序が乱れてしまうのではないか?
従って、理性によって感覚をコントロールし、感覚ではなく理性に従って行動しなければならないのではないか?と疑問に思いますよね?
この点については様々な意見があると思いますが、私は人々が感覚に従って行動してこそ秩序は保たれると考えています。
秋葉原や川崎の事件を始め、反社会的な行動を取っている人の生い立ちを遡ってみると、生育環境の中で必ず自分の感覚を否定され、自己嫌悪を抱くようになったという経験をしています。
つまり、自分の感覚に従って殺人をしたというより、自分の感覚を否定された結果、何も信じられなくなり犯罪行為に走ってしまったということです。
一部には、先天性サイコパスと呼ばれる人達もいて、愛情のある家庭で育てられたのに遺伝的な要因で犯罪をしてしまう人もいるようです。
しかし、先天性サイコパスの人は自分の感覚が世間とズレていることに関して苦しむことはないようです。
自己肯定感の低さに悩んでこのページを訪問してくれた皆さんは、恐らく先天性サイコパスではないと思います。
「人間の感覚は本来、秩序に反しないはずだ」という考え方は私が勝手に言っているのではなく、古今東西の思想にも見られます。
- 梵我一如
インド哲学には「梵我一如」という考え方があります。
宇宙の根本原理と自分自身は同じだということです。
深い瞑想状態に入ると、自分が宇宙の一部だということが直観的に分かるそうです(私は経験したことがありませんが・・・)。
全ての人間は結局のところ宇宙の一部なのですから、誰か特定の人が優れているというわけではありません。
「自分を信じても秩序に反することはない」という考え方に繋がるのではないでしょうか?
- 汎神論
西洋にも「汎神論」という考え方があります。
「神は世界の全て」なのですから、自分も神の一部だ・・・という考え方です。
自分も神の一部なのであれば、自己嫌悪を持つ必要はありません。
- 論語
論語に「己の欲せざるところは人に施すなかれ」という言葉があります。
これは「自分がして欲しくないことは人にするな」と解釈されることが多いですが、字面通り解釈すればそういう意味にはなりません(参考文献:安冨歩「生きるための論語」)。
これは「自分がやりたくないことは人にするな」という意味です
「自分がして欲しくないこと」と「自分がやりたくないこと」では意味が大違いです。
「自分がやりたくないことは人にするな」とは、どういう意味でしょうか?
例えば、たとえ周りで困っている人がいても、自分が「助けたい」と思わないのであれば助けるな!助けない自分に罪悪感を持つな、という意味になります。
また論語には「七十にして心の欲する所に従って矩を踰えず」という言葉があります。
70歳になると、自分の気持ちに素直に行動しても人の道を外れることがない、ということです。
成熟するとは、理性で考えられることではなく、自分の感覚を信じられるようになることだ、という意味ではないでしょうか。
このように、論語では感覚を重視することが説かれています。
人間の感覚には本来それだけの機能が備わっており、成熟することにより自分のということではないでしょうか。
先ほど例に挙げたユダヤ人大量虐殺のアイヒマンにしても、自分の感覚を殺して命令に従った結果として大量虐殺になってしまったわけです。
人は自分の感覚に従って犯罪をするのではなく、自分の感覚が信じられなくなったときに犯罪行為に走ってしまうのではないでしょうか。
自分の感覚を信じたら犯罪者になってしまうのではないか?と不安な方には、アリス・ミラーの「魂の殺人」という本がオススメです。
大きな犯罪をする人は、小さい頃に自分の感覚を破壊される経験をしていることが分かります。
自分の感覚を信じるためにすべきこと
自己肯定感の低い人は、「自分の感覚が何を求めているか」ではなく「良いことか」「必要なことか」という基準で物事を判断します。
その結果、直観的には「必要ない」と感じていても、「重要だ」と頭で判断して人と付き合ったり、物を買ったりしています。
感覚ではなく善悪や必要性で判断することが習慣になってしまっていると、これを転換するのはとても大変です。
では、どうやって感覚を取り戻すのかというと、物の断捨離をすることです。
自己肯定感の低い人の部屋は大量の物が溜まっている場合が多いです。
なぜなら、自分にとって本当に必要な物が何か?を感じることができないからです。
近藤麻理恵さんの「片づけの魔法」というベストセラー書籍がありますが、そのやり方に従って断捨離を進めることで感覚が回復します。
この本では、「必要かどうか」ではなく、「ときめくかどうか」で物を捨てるかどうか判断してください、ということが繰り返し書かれています。
家にある物を洋服・本など種類別に一箇所に集め、実際に手で触って自分の気持ちがときめくかどうかを確認し、ときめいた物だけ残す・・・というやり方です。
これを、少しずつではなく一気にやってしまうことが勧められています。
私は、日本からインドへ引越しをするときに、近藤麻理恵さんの本に書かれていた方法に従って一気に断捨離を行いました。
すると、確かに自分の感覚が研ぎ澄まされているのが分かります。
「ときめかないけど、申し訳ないから」と思って取っておいた結婚式の引出物の食器などがたくさんありました。
これらを1つずつ直感で断捨離していくことにより、感覚が回復されます。
物の断捨離と同様に、人付き合いやイベントへの参加、資格の勉強なども「気持ちがときめくかどうか」で判断していきます。
自分の感覚を信じるときの注意点と対策
自分の感覚を掴むときに注意点があります。
自分の感覚を信じるときの注意点
自分の感覚を信じるときの注意点とは、本当の感覚と依存症との違いを見極めることです。
例えば、アルコール中毒の人は毎日お酒を飲むのが好き、ギャンブル依存症の人は毎日パチンコへ行くのが好き、と思いがちです。
しかし「好きである」のと「依存症である」のは違います。
この区別は難しいです。
以前、あるギャンブル依存症の方から聞いた話ですが、ギャンブルをして「勝ったら嬉しい、負けたら悔しい」という感覚を持っている人はまだ依存症ではないそうです。
ギャンブル依存症とは、「ギャンブルに勝っても嬉しいわけではないし、負けても悔しいわけではない。しかしギャンブルをせずにはいられない。ギャンブルをしないと苦しすぎて発狂しそうになる」という状況なのだそうです。
アルコール依存症も、酒を飲んで幸せになるわけではないものの飲まずにはいられない・・・という状況です。
これは「酒を飲みたい」という感覚ではなく、「酒を飲まなければ生きていけない」つまり「自分には酒を飲まない限り幸せを感じる力がないはずだ」という不安に陥っています。
しかし実際には酒を飲んで幸せを感じるどころか、何も幸せを感じられず生活が破壊されていくのですから、本来の感覚に反する行動といえます。
従って、アルコール依存症患者がすべきことは酒を飲むことではなく、「酒を飲まなくても幸せを感じられる力が自分にはある」と感じられるようになることです。
これは依存症だけでなく、強迫性障害者の強迫行為などにも同様なことが言えます。
強迫性障害の患者が何度も手を洗ったり戸締りを確認したりするのは好きこのんでやっているわけではなく、「それをしなければ大変なことになる」という根拠のない不安に基づいてやっています。
不安によって自分の感覚が殺されている状態です。
ここまで極端な例だと共感できない方も多いかも知れませんが、多くの方が似たような行為はやっているのではないでしょうか。
例えば、通勤前や昼休みにカフェで100円のコーヒーを買うのは、コーヒーを飲んで幸せになれるからでしょうか?それとも、コーヒーでも飲まないとやっていられないからでしょうか?
寝る前にスマホでYouTubeを見るのは、YouTubeを見るのが楽しいからでしょうか?それとも、YouTubeでも見ないと日々の生活がつまらなくて耐えられないからでしょうか?
この違いを見極めるのは非常に難しいですが、「そんなことどうでもいい」と流さずに真剣に考えることで人生が変わります。
「自分の感覚」と「不安の解消」の見極め方
上述の通り、あることを「やりたい」と思ったときに、それが自分の感覚に従って「やりたい」と感じているのか、それとも不安を打ち消すために「やりたい」と感じているのかを見極めることは非常に難しいです。
ではどうやって判断するかというと、罪悪感があるかどうかです。
会社への出勤前に駅近くのスターバックスで毎朝カフェラテを飲んでいる人の場合、飲んだ後
と思えれば「自分の好きなこと」ですが
と思うのであれば依存症の可能性があります。
罪悪感があるからと言って、翌日から断ち切るのは簡単なことではありません。
しかし罪悪感を伴う行為は「私はダメな人間だ」と自己肯定感を下げてしまうので、幸福感を感じられないのであれば「どうすれば断ち切れるか?」を考えても良いかも知れません。
または逆に「毎朝コーヒーを飲んで何が悪い!それが私の幸せなんだから、それで自己破産しても本望だ」と考えてみるのも良いかも知れません。
「毎朝コーヒーを飲んでも良い」と自分に許可を出して初めて、「それでも自分は本当に毎朝コーヒーを飲みたいと心の底から思っているのか?」を感じ取ることができます。
自分の感覚を信じるためには環境を変えることも必要
いくら「自分の感覚を大切にしましょう」と言ったところで、周りから否定され続けていると自己肯定感は上がりません。
そこで重要なことは、自分自身の感覚を尊重してくれる人間関係に身を置くことです。
具体的には、自分自身の感覚を尊敬してくれない人達と距離を置くことが大切です。
そこで次回の記事では、自己肯定感を高めるための人間関係の構築方法について考えます。